本住吉神社

 倚松庵から北上し、神戸市東灘区住吉宮町7丁目に鎮座する本住吉神社を参拝した。

本住吉神社

 本住吉神社は、表筒男(うわつつのお)命、中筒男(なかつつのお)命、底筒男(そこつつのお)命の三柱の神(住吉大神)と、神功皇后を祀る。

 神功皇后の艦隊が、朝鮮征伐の帰路に大阪湾に入った途端に進まなくなった。

 皇后が務古水門(むこのみなと)に戻って占うと、表筒男命中筒男命底筒男命の三神をこの地に祀るよう託宣があった。

本住吉神社

 神功皇后が託宣通りに三神を祀ると、無事に海を渡ることが出来たという。これが本住吉神社の発祥である。

 この三神は、伊邪那岐命の禊から生まれた神様である。住吉三神とも住吉大神とも呼ばれている。

 大阪市に鎮座する住吉大社が、住吉三神神功皇后を祀る神社としては日本最大であるが、この本住吉神社は、大阪の住吉大社の元宮とされている。

参道

 住吉大神は、航海を司どる神様である。そのためか、全国の住吉神社は、基本的には海沿いに鎮座している。

 そうでないものは、住吉大社社領だった場所に勧請されたものが多い。

 本住吉神社は、平成7年の阪神淡路大震災で大破したが、その後立派に復興した。

拝殿

 ところで本住吉神社は、宗教法人生長の家創始者である谷口雅春が住吉村に住んでいたころ、毎日早朝に参詣していたことで知られている。

 谷口はある日の参拝で、住吉大神から啓示を受けて、生長の家の教えを得たという。

 谷口雅春が代表であったころの生長の家は、天皇絶対主義を唱える宗教右翼で、戦後も生長の家信者の学生が、生学連を結成して左翼学生に対抗したり、三島由紀夫楯の会に入隊するなど、右翼運動で一定の役割を果たした。

本住吉神社の扁額

 谷口は昭和49年に、保守系の宗教団体を糾合して「日本を守る会」を立ち上げた。

 日本を守る会は、保守系文化人が作った団体「日本を守る国民会議」と平成9年に合併して、日本会議となった。

 今でも日本会議の事務局を担っているのは、谷口雅春時代の生長の家の出身者であるという。

 日本会議は、日本の保守運動の一翼を担い、日本社会にある一定の影響力を持ち続けている。

拝殿から本殿を望む

 日本の保守系の議員の中にも、日本会議と関係を持つ人は多い。

 考えようによっては、谷口雅春本住吉神社で得た住吉大神の啓示から、戦後の日本の保守運動が生まれたと言えなくもない。

 本住吉神社は、日本の保守運動の原点のような場所とも言える。

 さて、本住吉神社の本殿には、正面に4つの千鳥破風が付いている。

本殿

 それぞれの千鳥破風の下に、住吉三神神功皇后の四柱の神を祀っている神座があるのだろう。

 江戸時代から、本住吉神社ではだんじり祭りが行われている。氏子9地域のだんじりが、毎年5月4,5日に宮入する。

 境内には、だんじりの収納庫と思われる建物がある。

だんじりの収納庫

 江戸時代には、本住吉神社の南側は参勤交代の大名行列が通る旧西国街道であった。

 社頭にそれを示す西国街道の碑が建っている。

西国街道

西国街道の碑

 本住吉神社の南側には、今は国道2号線が通っているが、この石碑から東約400メートル、西約150メートルの2号線北側歩道が、旧西国街道と重なっているそうだ。

 本住吉神社の前には、大名が休憩する本陣があった。住吉は、大名行列が昼休憩をした場所で、道沿いに休み茶屋が沢山並んでいたという。

 また本住吉神社の東側の南北道は、有馬に抜ける有馬道で、有馬道と国道2号線が交差する交差点の北東側に有馬道の碑が建っている。

有馬道の碑

 ところで、神戸市東灘区渦森台4丁目に、本住吉神社の奥宮があるとのことだったので、行ってみた。

本住吉神社奥宮への階段

 渦森台は、東灘区の市街の北端にある住宅街で、とんでもない急坂を車で上がっていった果てにある場所である。

 この辺りには、かつて渦が森という森があったそうだ。

 住宅街の北端に、階段があり、階段を登ると奥宮があった。

本住吉神社奥宮

 渦が森が住宅街として開けるまでは、奥宮は六甲山中腹の森の中に鎮座して、麓を見下ろしていたことだろう。

奥宮

 ここからは、六甲山への登山道も続いている。

 都会の喧騒を離れた静かな場所で、住吉大神のおわす場所として、この奥宮は相応しいものであった。

 神功皇后谷口雅春に神託を下した住吉大神は、今も日本を見守っていることであろう。