柳原蛭子神社 福海寺

 能福寺から北西に向かって歩き、阪神高速道の高架を潜り、その先にある神戸市兵庫区西柳原町にある柳原蛭子神社を訪れた。

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柳原蛭子神社

 柳原蛭子神社は、地元では「柳原のえべっさん」と呼ばれている。えびす神は、七福神の一柱で、釣竿を持ち鯛を抱えた姿で有名である。

 七福神の神様は、ほとんどがインドや中国発祥の神様だが、えびす様は日本独自の神様で、記紀神話にも出てこない神である。

 いつしか記紀神話に出てくる蛭子(ひるこ)や事代主神と同一視されるようになった。

 えびす様は、漁業や商売繁盛の神として祀られている。現世利益を体現したような神様である。えべっさんにお参りする人は、堂々と「儲かりますように」と祈る。そこには金儲けに対する後ろめたさは微塵もない。

 柳原蛭子神社の創建の由来ははっきり分からないが、元禄時代にはここに鎮座していたらしい。昔、蛭子神を祀る西宮神社の神輿が海上を兵庫津まで渡御する儀式があったそうである。そのためか、この地にも蛭子神が勧請されたのだろう。

 私が参拝した1月11日は、丁度十日えびす大祭の最終日だった。コロナ特措法に基づく緊急事態宣言発令の直前で、さすがに例年より人出は少なかったが、それでも参拝者の熱気で境内は暖かかった。

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楽殿

 神楽殿には、鯛や鰤が奉納されていた。えびす様も見事な海の幸にさぞお喜びだろう。

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楽殿に奉納された魚

 十日えびす大祭は、3日に渡って行われる。1月9日は宵えびす、1月10日は本えびす、1月11日は残り福と呼ばれる。

 9日の宵えびすでは、淡路人形浄瑠璃の福神楽戎舞が奉納される。えびす様が酒を飲んで上機嫌になり、船に乗って沖に出て、鯛を釣ってめでたしめでたし、という舞だ。参拝客は家内安全商売繁盛を祈念して、えびす様から福をもらう。

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拝殿

 例年より少ないとは思うが、拝殿前には参拝客が行列を作っていた。商売人などは、特に気合を入れて参拝することだろう。

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本殿

 柳原蛭子神社の社殿も、神戸大空襲で焼失した。戦後社殿は復興されたが、老朽化したため、平成22年に新社殿に建て替えられた。えべっさんの社殿は、新しければ新しいほどいいような気がする。

 柳原蛭子神社の隣には、臨済宗の寺院、福海寺がある。

 柳原蛭子神社福海寺の間の道が、旧西国街道で、昔はここに兵庫の町の惣門である兵庫西惣門があった。

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兵庫西惣門跡

 上の写真の左側の道が旧西国街道で、ここが兵庫の町の入口だった。ここに江戸時代まで門が建っていたわけだ。

 柳原蛭子神社の敷地北側に、西国街道兵庫西惣門跡の石碑と、惣門の形を模した看板が建っている。

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兵庫西惣門跡

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 兵庫の町の東側の出入り口には、湊口惣門が建っていた。ここから南の街並みは、碁盤の目のように整然としている。

 柳原蛭子神社の東隣にある福海寺は、大黒天を祀る寺で、十日えびす大祭と同じ日に大黒祭を執り行う。

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福海寺

 大黒天は、ヒンズー教シヴァ神のことである。インドでヒンズー教に対抗する形で登場した密教が、シヴァ神密教の中に取り込んで仏法の守護神にした。シヴァ神は、マハーカーラと呼ばれた。マハーは「大」という意味で、カーラは「暗黒」という意味である。密教経典が漢語訳された時に、大黒天という呼び名が誕生した。

 元々の大黒天は、青黒い体で憤怒相をした怖い姿の神様だった。

 大黒天は密教と共に日本に伝来したが、いつしか出雲大社の祭神・大国主神と音が通じるので習合された。

 元々シヴァ神は破壊と豊穣の神だが、日本では国造りの神様・大国主神と習合されて豊穣の面だけが強調されるようになり、ついには米俵の上に乗り、打ち出の小槌を持って福袋を担いだ福々しい姿で表されるようになった。

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福海寺本堂

 福海寺本堂前にも、ちゃんと米俵が奉納されている。

 本堂に祀られる大黒天は、福々しい姿ではなく、黒い体に憤怒の面持ちをした姿であった。本来の大黒天の姿だったので、安心した。しかしよく見ると、米俵に乗って、金色の打ち出の小槌を持っている。

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大黒天像

 米俵に乗っているところからして、大黒天は日本では農業の神になったようだ。えべっさんが漁業の神なら、大黒さんは農業の神である。魚と米という、日本の食を支える二大産物の豊饒を齎す神様が、柳原には並んで祀られているということになる。

 ところで、福海寺の創建は、足利尊氏に関連している。

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太平記合戦図

 建武三年(1336年)、兵庫の地で南朝方の新田義貞軍に敗れて追われた足利尊氏は、福海寺の前身である針ヶ崎観音堂に避難して難を逃れた。

 その後尊氏は、九州に落ち延びて再起し、湊川の合戦で南朝方を破って室町幕府を成立させる。康永三年(1344年)、尊氏は、自分を守ってくれた針ヶ崎観音堂の地に福海寺を建立する。そして足利氏が昔から信仰する大黒天を祀ったという。

 また福海寺境内には、平清盛公遺愛の時雨の松の石碑がある。

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平清盛公遺愛時雨之松碑

 昔、福海寺から少し東に行った三川口町の辺りに、平清盛公が愛した時雨の松があった。時雨の松は、青葉から玉露を垂らし、霊験あらたかだったという。その松も神戸大空襲で燃えてしまい、明治35年福海寺住職によって時雨の松の傍に建てられた石碑だけが残った。

 この石碑は、今は福海寺境内に移され、ひっそりと境内に佇んでいる。

 福海寺の東隣には、臨済宗の寺院、福厳寺がある。

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福厳寺

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 福厳寺は、14世紀初めに仏燈国師が開いたとされ、元弘三年(1333年)に後醍醐天皇が配流先の隠岐を脱出し、京に向かう途中、赤松円心楠木正成と合流した場所とされている。

 後に北朝方と南朝方に分かれて争った2人の武将が、この時は鎌倉幕府討滅のために力を合わせていたわけだ。

 今日はえびす様と大黒様という、招福の神様を紹介した。人間が富や安定した生活を求めるのは、自然なことで決して悪いことではない。こうした人間の自然な欲と直結した神様は、これからも長い間信仰を集めるものと思われる。