美作国府跡の西側にある亀甲山という小高い丘の上に、美作国65郷の全ての社の神々を合祀する美作総社宮がある。地名では津山市総社になる。
日本各国に一社は、名に「総社」とつく神社がある。
国庁に赴任した国司は、国中の神社に参拝するのを重要な務めとしていたが、平安時代に入って、国中の神社に参拝するのを一回の参拝で済ませるため、国庁の近くに国中の神々をまとめて祀った神社を建立した。それが総社である。
美作総社宮も美作国府跡のすぐ近くに建立されている。
私の住む播磨の国府跡は、まだ発掘されていないが、播磨国総社と呼ばれる射楯兵主神社が姫路城の南東にあるので、播磨国府もその近くにあったものと思われる。
国司は、総社の祭神の神意を奉じて国の統治方針をたてていたという。まるで神権政治だ。
美作総社宮の本殿は、中山造という美作地方独特の様式で、現在は国指定重要文化財となっているが、戦前の文化財制度では国宝であった。
鳥居の脇に、「当社本殿 国宝」と彫られた石柱が建っている。
戦前の日本で、国宝に指定された総社の建物は、全国でここだけだという。
美作総社宮の参道には、散り始めた桜が並んでいた。葉がわずかに出始めた桜もいいものだ。
参道から亀甲山に上る石段の前には、少しとぼけた表情の狛犬がいる。
石段を上ると、目の前に拝殿が現れる。拝殿の背後には、国指定重要文化財の豪壮な本殿が建つ。
拝殿は銅板葺きの簡素な建物だ。
社伝では、美作総社宮の創建は欽明天皇二十五年(564年)とされ、ここより1キロメートル西の地に大己貴(おおなむち)命(大国主命)をお祭りしたのが始まりだという。
和銅六年(713年)に備前国から美作国が分立し、この地に国府が出来た際、国司が亀甲山に社を移し、美作国の天神地祇全てを祀る総社とした。
社伝では、美作国が出来てすぐに美作総社宮が建ったとされているが、実際のところは、他の国の総社と同じく、平安時代に建立されたのではないか。
鎌倉時代に入って、美作国府が衰亡した後も、美作総社宮は、美作一宮の中山神社、美作二宮の高野神社と並んで、美作三大社の一つとして広く尊崇された。
今の本殿は、永禄十二年(1569年)に毛利元就が建てたとされ、明暦三年(1657年)に津山藩二代目藩主森長継が大修理を加えたという。
最近では、昭和7年に解体修理が行われた。
本殿は、桃山時代の特徴を残した豪壮な建物である。
本殿正面に掲げられた扁額には、「正一位総社大明神」と書かれている。明暦年間の再建時の扁額だろう。
何度も修理されている本殿だが、永禄時代の部材をそのまま使い続けているのであれば、かなりの時を経た木造建築物ということになる。
本殿の木材の色が、飴色のようになっている。古く大きな木造建築物は、本当に魅力的だ。
今まで私は、播磨国総社と呼ばれる射楯兵主神社、備前国総社宮を参拝した。美作総社宮は、私が参拝した3つ目の総社宮になる。
これから各地の総社も訪れることになると思うが、それぞれの国ごとの違いも見えてくるだろうか。