永富家住宅から北に行くと、養久山という低山がある。
この山中には、弥生時代後期から古墳時代後期までの古墳が30基以上存在する。
古墳と言うと、ほとんどの人は前方後円墳を思い出すだろう。前方後円墳が日本に出現しだしたのは、3世紀半ば、西暦250年前後のことである。卑弥呼の墓と言われる奈良の箸墓古墳が、最古の前方後円墳と言われる。それまでの有力者の墓は、円墳と呼ばれる、単に土を盛り上げた墳丘であった。前方後円墳が登場してから、大化の改新で孝徳天皇が薄葬の詔を出して古墳築造が禁止されるまでの間の時代は、「古墳時代」と呼ばれている。
古墳時代が始まるまでの円墳は、弥生時代のものとなる。古墳の定義がはっきり定まっていないので、何とも言えないが、古墳時代が始まる前の円墳や四隅突出型墳丘墓も古墳と呼ばれることがある。
このブログでは、円墳も四隅突出型墳丘墓も古墳と呼ぶ。
この養久山古墳群の何が凄いかというと、養久山1号墳である前方後円墳が、3世紀後半に築造されたものであるということだ。3世紀後半と言えば、西暦250年から300年までの間のころである。3世紀に築造された前方後円墳は日本中でも数少ない。養久山1号墳は、日本最古級の前方後円墳の一つである。
大和の箸墓は、発生間もないヤマト王権が造ったものだろう。前方後円墳は、当時の最新のテクノロジーで作られた「流行の形」であったろうと思われる。前方後円墳は、その後日本全国に広がっていくが、これは、ヤマト王権の支配が日本に広がる過程と重なっている。
ということは、養久山の辺りは、既に3世紀後半にはヤマト王権の影響下に置かれていたということになる。
ところで、古墳は立派な建造物である。建造物というと、多くの人は建物を連想するだろうが、人間が自然に手を加えて地面に固着した物を建造物と呼ぶのなら、古墳も建造物だ。
日本の建物で最古のものは奈良の法隆寺だ。現存する法隆寺の建造時期を巡っては、再建、非再建論争があるが、いずれにしろ7世紀に建造されたものである。
それ以前の建造物で、日本に現存するものは、古墳しかない。薄葬の詔で、古墳が姿を消した時代と、法隆寺が建てられた時代が概ね重なるのは面白い。
それにしても、たつの市揖保川町に日本最古級の建造物があるというのに、誰もそれに注目しないのが悲しい。古墳が建造物であるという考えが世の中に広まれば、もう少し変わるかもしれない。
さて、養久山は、ハイキングにちょうどいい低山だ。途中、眺めのいい東屋もある。ここからは、遠く淡路島まで見晴らせる。
道の途中には、中世の山城、乙城跡や、弘化四年(1847年)製の石仏がある。
乙城は、建武年間(1334年から1338年)に、赤松円心の家臣高瀬影忠が築いた。
その後嘉吉の乱で赤松氏が一度滅んでから廃城となったが、赤松氏の復興とともに城も復活した。天正六年(1578年)龍野赤松氏が秀吉に降伏し、龍野城主赤松広秀は、龍野城を蜂須賀正勝に譲って乙城に移った。その後、天正13年(1585年)に赤松広秀は但馬竹田城に移って乙城は廃城となった。
戦国乱世の武士は、養久山に残る古墳を見て、何を思ったのだろう。
私の史跡巡りも、どんどん内容が地味になっている。史跡は人間の生活の証である。人間の値打ちに上下がつけられないように、史跡の価値にも上下はつけられない。もちろん、それぞれの芸術的完成度や、史料としての価値の高低などの差は生ずる。だが人間の生活の証という視点からすれば、どんな史跡も価値あるものである。
養久山には1700年以上昔の建造物が残っている。いま日本にあるタワーマンションや大型ショッピングモールが、1700年後に残っているとはとても思えない。残るものには、何がしかの畏敬すべきものがあるに相違ない。歴史の荒波を乗り越えたものは、それだけで一目を置くべき何物かである。