龍野城と龍野古城

 龍野城は、もともとは今の龍野城の裏にある鶏籠山(けいろうざん)の山頂に築かれていた。明応八年(1499年)に、赤松村秀が鶏籠山頂に城を築いた。朝霧城と呼ばれ、赤松氏四代がここを根城にした。

 天正五年(1577年)、信長が派遣した秀吉率いる織田軍二万人が龍野城下に押し寄せた。

 赤松広秀は、秀吉に降伏し、城を明け渡した。その後、豊臣政権下で龍野城主となった石川光元は、慶長元年(1596年)に山上の龍野城を破却し、鶏籠山の麓に城を移した。これが現在の龍野城の発祥である。

 寛文十二年(1672年)に、脇坂氏が龍野藩主になって、城の整備をすすめ、天守閣はないが三方に石垣を巡らした龍野城が完成した。

 その後、龍野城は、明治初期に廃城となり、古い石垣ばかりが残るのみとなったが、昭和54年(1979年)に本丸御殿や多聞櫓が復元された。

このように、今目にする龍野城は、昭和時代に整備されたものである。

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龍野城隅櫓

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龍野城埋門

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龍野城本丸御殿

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龍野城上段の間

 今の龍野城は、霞城と呼ばれ、たつの市のシンボルとなっている。しかし、昭和時代に整備されたお城を見ても、どことなく物足りない。

 現代の龍野城の背後に聳える鶏籠山にあるかつての龍野城址(今は龍野古城と呼ばれている)を見たくなった。

 鶏籠山は、鶏籠を伏せたような形をしているので、そう呼ばれる。標高210メートルほどの小山なので、そんなに難儀せずに登れる筈だ。

 というわけで、軽装で登り始めたが、なかなかの急坂が続く。

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鶏籠山登り口

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龍野古城の復元図

 龍野古城は、典型的な中世の山城である。戦乱が治まれば、城を山上に築くメリットは無くなる。かくて、天下の平定が進んだ安土桃山時代のころから、城は平地に築かれるようになった。

 誰が好き好んで、山上を職場にするだろう。これも全て防備のためである。

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本丸を支えていたであろう石垣

 山を登りきる。本丸跡は、山頂を平らに切り開いた場所にあった。

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龍野古城の石碑

 本丸跡の地面には、当時の瓦が大量に落ちていた。

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16世紀の瓦くず

 建物を解体した時に落ち散らばったと思われる瓦くずが、そのまま放置されている。

 ふと瓦を手にすると、「あわれ」という情感が急激に押し寄せて来た。人の生活の栄枯盛衰を感じて、「あわれ」という感情を持つことは、古代から近世まで、日本の古典文学の中で繰り返し書かれているが、私を捉えたのも同じ感情である。

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城の守護神八幡宮の参道跡

 本丸跡から下りたところに、かつて城の守護神として祭られていた八幡宮跡がある。八幡宮は跡形もないが、参道の石畳と鳥居の一部が残っていた。

 城のあるところに人は集まる。だとすれば、この龍野古城は、今の龍野の町が出来る大本となった場所である。しかし今や、鶏籠山を登り、龍野古城を訪れる人は、観光客はおろか、地元の人の中にもほとんどいないだろう。

 私は山頂で哀れな情感を感じたが、麓に建つ現在の龍野城では満足できなかった好古の心を満足させることができた。