津山市加茂町塔中にある万燈山古墳は、6世紀末に築かれた円墳である。
古墳は、めぐみ荘という老人ホームから北に行った突き当りの丘上にある。
登り口から登り始めると、舗装路に出る。舗装路に出てすぐに左側に登る道がある。
細い路を登って行くと、直径約24メートル、高さ約4メートルの万燈山古墳が目の前に現れる。
古墳の羨道の入口は、鉄格子で塞がれている。古墳を守るためか、古墳の表面の一部が黒色のビニールで覆われている。その上を枯葉が覆っていたため、墳丘に登った時にすべってしこたま尻を打った。
万燈山古墳は、6世紀後半に築かれ、7世紀前半まで追葬が行われた。
昭和46年11月から12月にかけての発掘で、石棺1、陶棺1、木棺7が確認され、20体以上もの埋葬者が確かめられたという。
古墳は、1人に1つ作られるものではなく、現代人のお墓のように、古墳に一族が何人も埋葬されたようだ。
また万燈山古墳からは、金環や小金環、勾玉、管玉などの玉類、刀、鉄鏃などの武具類、馬具類や、高坏や甕などの土器、須恵器が見つかった。
地方の族長一家が埋葬された場所だろう。
古墳に複数の人が埋葬されたことを考えると、古墳は現代人にとっての先祖累代の墓のようなもので、そこでは何らかの祖先を祀る祭祀が行われていたことだろう。
6世紀後半から7世紀前半は、仏教が日本に伝来していたものの、まだ主流ではなかった。日本に寺院はほとんど建っていなかった。寺院が日本全国に建てられ始めたのは、7世紀半ばからである。
神社建築は、寺院が建ち始めてからそれと区別するために建てられたものである。
この当時には、神道では山や石や滝などをそのまま御神体として祀っていたので、神社建築もなかった。
つまり日本にはこの当時、宗教的な建造物がなかったのである。
そんな時代に存在した古墳は、唯一の宗教的な建造物と言えるものだったろう。この時代の祖先祭祀の方法は、文献がないのでどんなものか分らない。
万燈山古墳の北東約二百メートル先の墓地の間の細い道を進んでいくと、左手に文殊堂がある。
この文殊堂の裏に、花崗岩製の石造無縫塔と石造宝篋印塔がある。南北朝時代に造立されたものと言われている。
この地は、京都市右京区にある天龍寺(臨済宗)の末寺だった法音寺があった場所とされる。
宝暦十二年(1762年)に天龍寺の僧侶がこの地を訪れ、天龍寺の古記録と照合して、左側の無縫塔を天龍寺開祖の夢窓疎石、右側の宝篋印塔を法音寺の開祖の宝山大和尚のものと認定したという。
夢窓疎石の墓は、京都嵯峨にあるので、この石造無縫塔が墓ということはないだろう。供養塔ということだろうか。
古墳にしろ、石造無縫塔や宝篋印塔にしろ、後世に残そうとして何かを作っても、それが何だったかを説明する文献がなければ、後世にはそれが何を意味するか分からなくなってしまう。
文字と言葉は、有限な命を持つ人間が行ったことを、後代に伝えるものである。
そう思えば、普段何気なく使っている文字と言葉も、尊重すべきものであると分る。