主屋を見終わった後は、大蔵の中に展示してある永富家ゆかりの品々を観る。
とにかく、龍野藩主脇坂家との関係を表す品々が多い。
脇坂家が龍野藩主となったのは、寛文十二年(1672年)に信州飯田から入封してからである。脇坂家が世間に名を知られるようになるのは、脇坂安治が、秀吉の下で賤ケ岳の合戦で功を上げ、「賤ケ岳七本槍」の一人と言われるようになってからである。
脇坂家が龍野藩主となったころの時代は、徳川の治世も安定していた。もはや、かつてのような軍事作戦が行われることはないかと思われた。
この時代に、龍野藩が行った軍事作戦は、「赤穂城受け取り」である。かの松之廊下の刃傷事件が原因で、赤穂浅野家が取り潰しになった時に、赤穂城を接収するよう命じられたのが、龍野藩であった。軍事作戦、と言っても、赤穂側が素直に城の明け渡しに応じたので、合戦には至らなかったが、赤穂側の一部に城を枕に討ち死にするという意見もあったそうだから、戦さになる可能性もあったわけだ。
結局、赤穂藩士からすれば、当時まだ主君の仇が生存していたのだから、こんなことで死ぬわけにはいかない。だから素直に城を明け渡し、浪人になったのだろう。
龍野藩では、赤穂城受け取りの際に、武士だけでは兵力が足りないので、領内の農民も動員した。永富家もこの時、武具を着用して出動している。
大蔵には、永富家の鎧兜や、槍、火縄銃などが展示されている。
さて、次に籾納屋に入ると、幕末から大正時代くらいまでの生活道具が展示してある。
当時の人たちが、様々な工夫をして道具を作り出し、生活に使っていたのが分かる。
永富家住宅の南側には、秋恵園という庭園がある。丁度、菖蒲が咲いていて、非常に美しかった。
園内には、鹿島守之助が建てた世阿弥の母の像がある。
私はかつて、三島由紀夫が20歳の時に書いた「菖蒲前」という短編小説を愛した。平安朝のころに、菖蒲前(あやめのまえ)という大人しいが美しい女性がいた。自分から離れようとする男の気を引き留めるために、菖蒲の精霊に祈って、最後に一度男と寝ることを願った。願いは叶ったが、その代わりに自分が一本(ひともと)の菖蒲草になってしまうという、メルヘンのようなお話である。
それ以来、菖蒲を見れば女性の精霊を思い浮かべるようになったが、世阿弥の母の像を見て、つい菖蒲の精霊の化身かと思ってしまった。