和田山町から養父市街に向けて国道9号線を走ると、国道沿いに2つの古墳がある。
城の山(じょうのやま)古墳と池田古墳である。とは言え、2つの古墳とも今は原型を留めていない。城の山古墳の下にはトンネルが掘られ、池田古墳は墳丘上に国道の高架橋が横断している。
古墳のある場所は、地名で言うと、兵庫県朝来市和田山町平野になる。
昭和46年に行われた国道9号線の工事の際に撮られた空撮写真を見ると、円墳である城の山古墳と、うっすら前方後円墳の形を残した池田古墳が見える。そして丁度この2つの古墳を跨ぐかのように道路の工事が進んでいるのが分る。
この写真を見て思うのは、なぜ敢えて2つの古墳を破壊しなければならない場所に道路を通したのかということである。
城の山古墳は、高さ約5メートル、直径約35メートルの円墳である。
現代の城の山古墳の下にはトンネルが通っているが、埋葬施設はトンネルの上の墳丘上にある。墳丘とは言え、自然の山を利用した円墳だ。
トンネルの東側には、フェンスがあるが、フェンスに設置された扉を開けて入ると、墳丘に登る道に行くことが出来る。
しばらく登ると、城の山古墳の説明板があり、目の前に墳丘が見える。墳丘と言っても山と一体化しているので、ここが古墳だと知らなければ墳丘とは分らないだろう。
登り口を探すと、墳丘の向かって左に道があった。
ここを登っていくと、フェンスに囲まれた墳頂に至った。墳頂の真ん中辺りが凹んでいるので、恐らくここに発掘された埋葬施設があったのだろう。
城の山古墳は、4世紀後半の古墳とされている。埋葬施設からは、三角縁神獣鏡、石製合子、石釧、鉄刀、勾玉などが出土した。出土した遺物は全て国指定重要文化財になった。
石製合子は、畿内の古墳以外の出土例が珍しいので、ここには大和王権と緊密な関係を有する者が埋葬されていたとされている。
4世紀後半は、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の時代だろう。日本が朝鮮半島に進出する国力を既に有していた時代だが、城の山古墳の被葬者は、そんな時代に政権から但馬を任されていた人物だろう。
さて、城の山古墳からすぐ東に高架橋があるが、これが池田古墳を真っ二つに割いている高架橋である。
池田古墳は、全長約141メートルで、但馬地方最大の前方後円墳である。しかしそんな大古墳も、今や写真の通り無残にも道路により前方部と後円部が寸断されている。後円部の真ん中には畑があり、その先に民家が建っている。
高架橋の南側に池田古墳と城の山古墳の説明板が立っている。
高架橋から見下ろすと、ぼんやりと古墳の形を認識できる。
手前の建設会社の小屋の向こうが後円部である。奥の民家が、空撮写真に写っていた墳丘上の民家である。
通常の前方後円墳は、墳丘がもっと高い筈である。池田古墳は、長い時の中で、墳丘が削られていったのだろう。
高架橋の北側にある前方部などは、ここに古墳があると教えてもらわなければ何か分らない。一見するとただの藪である。
池田古墳は、5世紀前半の築造とされている。仁徳天皇の時代だろう。
池田古墳の北西4キロメートルの和田山町高田に長持型石棺の蓋石があるが、これが池田古墳に埋葬されていたものではないかと言われている。
先ほども書いたように、池田古墳は元の墳丘がかなり削られているので、はるか昔に石棺が掘り出されたのではないか。
先日紹介した古代あさご館に、播州高砂の竜山石製の長持型石棺の復元模型が展示してあった。
こんな石棺が、池田古墳に埋葬されていたのだろう。
また、朝来市と兵庫県立考古博物館の発掘調査により、池田古墳には、祭儀を行うための造出しが備え付けられていたことが分かった。
古代あさご館には、池田古墳の造出しのジオラマが展示してあった。ジオラマには埴輪が多く並べられているが、池田古墳からは埴輪も多く出土している。中でも水鳥形埴輪は23体出土し、全国最多である。
ところで5世紀前半の日本には、仏教は伝来しておらず、儒教も恐らくは普及していなかったことだろう。
当時の日本の宗教は、現在神道と呼んでいる自然崇拝しかなかったと思われる。
そんな時代に、古墳の周囲で行われた宗教祭儀は、どんなものだったのだろう。
家形埴輪や水鳥形埴輪などが、どんな意味で飾られていたのだろう。家の埴輪があることを思うと、死者の魂を呼び出すような儀式を行っていたのではないか。
これは想像だが、昔の暮らしを想像するのは楽しいものだ。