福知山城の見学を終え、JR福知山駅の南側の福知山市広峯町にある廣峯古墳記念公園に赴いた。
この辺りには、西暦300~550年にかけて、30数基の古墳が築造された。
地名から、廣峯古墳群と呼ばれている。
昭和61年の福知山駅南土地区画整理事業により発掘調査が行われた。
廣峯古墳群は、広峯町の丘陵上にあったが、丘陵の最高部にあった15号墳は、全長40メートル、後円部径25メートルの前方後円墳であった。
廣峯15号墳は、後世の削平をかなり受けていた。
墳丘は盛り土を使わず、山から削り出して造られていた。
後円部からは、長さ3.6メートル、幅0.7メートルの木棺が発掘され、内部には朱が塗られていた。
木棺内からは、碧玉、菅玉、鉄剣などのほか、中国・魏の年号の景初四年(240年)の銘のある盤龍鏡が発掘された。
ところが、景初という年号は三年までしかなく、四年というのは存在しない年紀である。西暦240年は正始元年である。
「魏志倭人伝」には、魏が景初二年(238年)と正始元年(240年)に、倭国に銅鏡を下賜したと書いている。
日本の各地の古墳から、魏の年号の入った銅鏡が発掘されている。倭国が卑弥呼の時代に魏から入手した銅鏡を、倭国の継承者である大和王権が各地の豪族に配ったとも考えられる。
だが景初四年という年紀はないため、景初四年銘のこの盤龍鏡は、中国の年号をよく知らない日本人が日本で鋳造したものではないかという説もある。
そこはよくわからない。
発掘調査後、削平されていた廣峯15号墳は、原寸の3/4の大きさで再現された。
それが、今廣峯古墳記念公園にある前方後円墳である。
私が古墳公園に行って再現された廣峯15号墳を見た時、あまりに均整が取れたその形に魅せられたが、古墳時代の古墳が、こんな綺麗な姿で残っているわけはないと気づいた。
埋葬施設は、原寸の1/2.5のサイズで再現されている。
それにしても、前方後円墳の形は、なぜこんなにも日本人を魅了するのだろう。
前方後円墳が日本で造られたのは、3世紀半ばから7世紀半ばまでの約400年間である。この間の時代を古墳時代という。
前方後円墳を目にすると、古墳時代がまだそこに生きているという感に打たれる。
一挙に体がその時代に持っていかれる感覚になる。
古墳を築いた当時の人は、地域の有力者を葬った古墳が後世の日本人の興味の的になるとは予想していなかっただろう。
時代が移り変わっていくというのは、本当にそれだけでも面白いものだ。