衆楽園 前編

 4月3日に岡山県津山市を久々に訪れた。昨年8月30日以来の訪問である。前回は酷暑の中の訪問だったが、今回は過ごしやすい気候の中での訪問となった。

 津山と言えば、鶴山公園津山城跡)の桜が有名だが、前回津山城跡を訪れているので、今回は横目に見ながら通り過ぎただけだった。

 今回津山の様々な史跡で桜を見たが、4月に入ったばかりというのに、早くも散り始めていた。

 今回紹介するのは、津山市山北にある、津山藩が築いた大名庭園衆楽園である。

f:id:sogensyooku:20210415152031j:plain

衆楽園南側出入口

 衆楽園は、明暦年間(1655~1658年)に、津山藩第二代藩主森長継によって作られた大名庭園である。

 長継は、初代藩主森忠政の家老関成次と忠政の三女・お郷の間の子である。忠政の外孫に当る。

 忠政の実子が皆夭折してしまったため、忠政は長継を養子にして跡を継がせた。

 長継は、忠政の跡を継いで津山の開発を進めたが、京都から小堀遠州流の作庭師を呼んで大名庭園を作らせた。それが現在の衆楽園である。作庭時の面積は現在の3倍もあったそうだ。

f:id:sogensyooku:20210415153455j:plain

衆楽園

 庭園には、御殿が築かれ、藩主が清遊する場となった。

 森氏が改易となった後、庭園は、森氏に代わって入封した松平氏に受け継がれた。

 明治3年、津山藩主松平慶倫(よしとも)が庭園を「衆楽園」と命名し、公園として一般に公開した。

 明治4年の廃藩の際に、多くの建物が壊され庭園の規模も縮小された。名称も偕楽園または津山公園と改称されたが、幸いに園池の主要部分は残り、大正14年に再び衆楽園と改称した。

 平成14年には、国指定名勝となった。

f:id:sogensyooku:20210415154040j:plain

庭内を流れる曲水

f:id:sogensyooku:20210415154151j:plain

 現在の衆楽園は、市民に無料で公開されている。岡山後楽園と比べれば規模は小さいが、これだけ立派な大名庭園の跡を、無料で見学できるというのは幸せなことである。

 衆楽園は、京都の仙洞御所の庭園を模したと言われている。池泉廻遊式庭園の典型で、江戸初期の大名庭園の面影をよく残しているという。

 衆楽園の中央には、南北に長く伸びた大きな池があり、その池の中に4つの人口島がある。

f:id:sogensyooku:20210415155115j:plain

衆楽園内の池

f:id:sogensyooku:20210415155154j:plain

池に浮かぶ睡蓮の葉

 人口島には、それぞれ味のある橋が架けられている。後楽園では、橋はことごとく立入禁止になっていたが、衆楽園では全ての橋を渡ることが出来る。

 衆楽園では、こうした橋を渡りながら、庭園を巡ることが出来るが、池には睡蓮が浮かび、池の周囲には、桜、楓、松、躑躅などが生えている。

 睡蓮の花が咲く季節に来たら、本当に美しいことだろう。

f:id:sogensyooku:20210415155553j:plain

池のほとりの桜

f:id:sogensyooku:20210415155622j:plain

 私が訪れた日は、散り始めとは言え、まだ桜が美しく咲いていた。風が吹くと桜吹雪が宙を舞った。

f:id:sogensyooku:20210415155812j:plain

散る桜

 私が衆楽園を訪れて驚いたのは、樹高の高い松があったことである。

f:id:sogensyooku:20210415160243j:plain

樹高の高い松

 松と言えば、それほど高くない木だと認識していたが、こんなに高い松もあるのである。

 池の最も南側にある人工島が、最も大きな島である。橋を歩いて島に渡る。

f:id:sogensyooku:20210415160455j:plain

南側の人工島

f:id:sogensyooku:20210415160529j:plain

人工島に渡る橋

f:id:sogensyooku:20210415160605j:plain

 南側の島には、石造五重塔があり、島から北側の小さな人工島や、対岸にある茶室の風月軒が見える。

f:id:sogensyooku:20210415160952j:plain

石造五重塔

f:id:sogensyooku:20210415161253j:plain

風月軒と人工島

 水面には鴨が泳いでいる。池中には大きな錦鯉も泳いでいる。ここにはゆったりした時間が流れている。

f:id:sogensyooku:20210415161425j:plain

池を泳ぐ錦鯉

 こういう庭園を語るのに、言葉は要らないと思う。ただ風を感じながら歩き、花や木々を眺め、池を訪れた水鳥を眺める。

 最近になって、結局自然を眺めることが最高の贅沢であることが分かってきたが、町中に人工的な自然を作り出した大名の気持ちも分かる気がする。

五斗長垣内遺跡

 育波堂の前遺跡から山側に車を走らせる。

 標高約200メートル付近にあった高地性集落の遺跡、五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡を訪れた。地名で言えば、ここは淡路市黒谷になる。

f:id:sogensyooku:20210414202723j:plain

五斗長垣内遺跡活用拠点施設

 五斗長垣内遺跡は、弥生時代後期に栄えた集落の跡である。この集落では、畿内に先駆けて鉄器の生産が行われていた。

 当時の鉄器は、まだまだ貴重な製品で、朝鮮半島からの輸入品と、国内で少量生産された製品が流通していたに過ぎない。

 鉄器は、当時のハイテク製品なのだが、それがなぜ畿内より先にこの淡路で生産されていたのか、謎である。

 淡路の海人の先進性の謎を、これからの史跡巡りで解き明かせるだろうか。

 五斗長垣内遺跡の活用拠点施設には、鉄器生産に関する資料が展示されている。

f:id:sogensyooku:20210414203536j:plain

鍛冶作業の想像図

 写真の図が、五斗長垣内の集落で行われていた鍛冶作業の想像図だが、ご覧の通り製鉄は床上で行われていたようだ。地面に直接炭を置き、火を着けて鍛冶炉にした。

 革袋に溜めた空気を、蓮の茎で出来た送風管を用いて鍛冶炉に送り込んだ。鍛冶炉の温度は1000度を超えたようだ。

f:id:sogensyooku:20210414204125j:plain

蓮の茎の送風管

 熱した炉の上で砂鉄を溶かし、鉄の塊を作った。出来た鉄の塊を、台石の上にのせ、石製のハンマーで叩いて形を整えていった。

f:id:sogensyooku:20210414204417j:plain

台石

f:id:sogensyooku:20210414204457j:plain

石製のハンマー

 最後は砥石で研いで、武器や農機具にした。

f:id:sogensyooku:20210414204654j:plain

復元された鉄鏃

f:id:sogensyooku:20210414204811j:plain

板状鉄斧

 鉄器が普及するまでは、田畑を耕す鋤や鍬は石製か木製で、雑草を刈り取る鎌も石器であった。これでは作業能率が悪い。鉄製の農機具が普及して、農業の生産性は大幅に上がっただろう。 

 また、武器としても、鉄器は、石器や青銅器より圧倒的に強靭で威力がある。

 弥生時代後期は、「魏志倭人伝」に言うところの「倭国大乱」の時代だが、鉄器による強力な武器の登場が、大乱の背景にあるのではないか。

 五斗長垣内遺跡が生産した鉄製の武器が、互いに争いあう当時の国家に流通していたと思われる。

 また、淡路は銅鐸がよく出土する地域である。

f:id:sogensyooku:20210414211124j:plain

銅鐸

 銅鐸は、農耕祭儀に使用された道具と見なされているが、淡路で発掘された松帆銅鐸は、銅鐸を鳴らす舌もセットで発掘されている。銅鐸文化圏は、畿内一円に広まっていたが、ある時を境に銅鐸は打ち捨てられた。

 さて、五斗長垣内遺跡は、国指定史跡である。竪穴住居跡が発掘された一帯は、芝生が貼られ、復元された竪穴住居が何棟か建っている。

f:id:sogensyooku:20210414211709j:plain

国指定史跡五斗長垣内遺跡

f:id:sogensyooku:20210414211809j:plain

 よく整備された広大な高台に建つ竪穴式の建物群を眺めると、本当に弥生時代後期の集落にやってきた気分になる。

 その中には、「ごっさ鉄器工房」という、弥生時代後期の鍛冶作業を体験できる建物がある。

f:id:sogensyooku:20210414212131j:plain

ごっさ鉄器工房

f:id:sogensyooku:20210414212216j:plain

f:id:sogensyooku:20210414212255j:plain

ごっさ鉄器工房の鍛冶炉の跡

 通常の竪穴住居は、建物の中心近くに柱が立っていたりするのだが、鉄器を生産していた竪穴式建物は、建物の中心近くで火気を使うためか、柱が壁近くにあって、建物中心が広くなっており、屋根が高くなっている。

 ごっさ鉄器工房の床に赤茶けたところがあったが、鍛冶体験では、ここに鍛冶炉を作って鉄を溶かしているのだろう。

f:id:sogensyooku:20210414213727j:plain

鍛冶作業の再現

 平成20年には、弥生時代後期の大型鍛冶工房建物の跡が発掘されたが、その発掘跡の上に、大型鍛冶工房建物が復元されている。

f:id:sogensyooku:20210414212911j:plain

復元された大型鍛冶工房建物

 発掘された鍛冶工房建物跡は、建物の中心に円形の穴が掘られ、その周辺に土が赤く変色し、固くなった炉跡があったという。また建物の中から、弥生土器が多数見つかった。

f:id:sogensyooku:20210414213203j:plain

大型鍛冶工房建物の床

 やはり、鍛冶工房は柱が壁寄りにあり、床を広く使うことが出来るようになっている。

 このような建物の中で、額に汗を流しながら、多くの人が鉄器の生産に従事したのだろう。

f:id:sogensyooku:20210414213507j:plain

大型鍛冶工房建物の天井

 遺跡には、鍛冶工房建物だけでなく、小さな竪穴住居も復元されている。

f:id:sogensyooku:20210414213936j:plain

竪穴住居

 汗だくで鉄器を生産した人々も、夜はこんなささやかな住居に帰って休んだことだろう。

 弥生時代後期は、後の大和王権につながる国家連合が形成される前段階にあった時代である。

 神話ではなく、具体的な人間の歴史としてこの時代の日本のことを書いた文書は、「魏志倭人伝」くらいしかなく、真相は闇の中だが、五斗長垣内遺跡を見て、倭国大乱の時代の雰囲気を少しイメージすることが出来た。

淡路市北淡歴史民俗資料館 後編

 淡路市北淡歴史民俗資料館の裏には、18世紀中ごろの民家、旧原家住宅が建っている。

f:id:sogensyooku:20210412201326j:plain

旧原家住宅

 原家は、代々地元で農業を営んでいた旧家で、この家は、第65代衆議院議長原健三郎氏の生家でもある。

 旧原家住宅の母屋は、昭和50年にこの場所に移築され、公開保存されることになった。

f:id:sogensyooku:20210412201932j:plain

母屋入口

 旧原家住宅の造りは北淡地域に多い茅葺寄棟造りで、四方に本瓦葺きの大蓋(下屋)が付けられている。

 入口を潜ると土間があり、壁に古い農機具などが掛けられている。

f:id:sogensyooku:20210412202457j:plain

土間にある農機具

 外で農作業をして土にまみれて帰って来た時に、土間でまず汚れを落とすのは合理的だ。

 土間の奥には、竈と流しがある。

f:id:sogensyooku:20210412202704j:plain

f:id:sogensyooku:20210412202748j:plain

流し

 今となっては台所に当たり前のようにある水道も、江戸時代には存在しない。流しの脇にある甕に水を貯め、調理や食器洗いの際にそこから水を汲んで使ったのだろう。使った水は流しから床に落ち、床に開けられた穴から外に排出されたのだろう。

 土間から屋内を眺めると、畳の部屋がいくつかある。

f:id:sogensyooku:20210412203352j:plain

手前からヒロシキ、オモテ

f:id:sogensyooku:20210412203446j:plain

ヒロシキの襖

 当時の日本の民家は、日当たりの好い南側に床の間のある客間を置き、北側に家人たちが寝起きしたり食事したりする生活用の部屋を置いた。

 どの古民家に行っても土間が東側にあるのは、何か意味があるのだろうか。

 流しや竈は土間に作られるが、生活スペースが北側にあるので、自然と調理する竈や流しは北東に作られることになる。

f:id:sogensyooku:20210412203857j:plain

オモテの床の間

 旧原家住宅の南側には、東からヒロシキ、オモテという二部屋がある。オモテには床の間と仏壇があり、家の中で最も格式の高い部屋となる。客人もここに通されたことだろう。

f:id:sogensyooku:20210412204117j:plain

仏壇

f:id:sogensyooku:20210412204152j:plain

梵字が透かし彫りされた欄間

 床の間の右側にある障子を開けると、仏壇であった。十三仏弘法大師不動明王の掛け軸が祀られた真言宗の仏壇であった。

 仏壇の上には、梵字が透かし彫りにされた欄間があった。

 淡路は、江戸時代には全島が徳島藩蜂須賀家の領地であった。そのためか、淡路は文化圏としては阿波に近い。四国には八十八ヶ所霊場信仰があり、真言宗の勢力が強いが、淡路も真言宗が強い地域である。

 旧原家住宅の北側には、東からカマヤ、オイエ、オクという三部屋がある。カマヤが土間のすぐ側の部屋で、その横のオイエが居間、オクは寝室だろう。

f:id:sogensyooku:20210412205327j:plain

手前からカマヤ、オイエ

 カマヤの手前の板の間に、石臼が置かれていた。最近石造品に妙に心惹かれるようになったが、石臼を見ても何だかいいと思うようになってきた。石臼でも買って、庭にでも置きたいものだ。

f:id:sogensyooku:20210412205613j:plain

板の間の石臼

 居間であるオイエは、囲炉裏を中心にした空間である。

f:id:sogensyooku:20210412205759j:plain

オイエ

 こうした日本の古い民家を見て思うのは、冬は寒いだろうなということである。日本の民家は、暑い夏を過ごしやすくするように工夫されていて、冬の過ごしやすさはそのために犠牲にされている気がする。

 さて、旧原家住宅の見学を終え、淡路市育波にある育波堂の前遺跡のあった辺りに行ってみた。

 育波堂の前遺跡は、昭和40年に行われた旧北淡西中学校のグラウンド造成工事の際に発掘された遺跡で、縄文時代早期の押型文土器を最古として、縄文時代前期、中期、後期、晩期、弥生時代古墳時代奈良時代平安時代以後の土器が発掘された。

f:id:sogensyooku:20210412210527j:plain

縄文時代前期の縄文土器

 縄文時代早期は、約12,000年前から始まる。そんな縄文時代早期から平安時代にかけての土器が発掘されたのだから、育波堂の前遺跡は、かなり長く人が居住した集落の遺跡のようだ。

f:id:sogensyooku:20210412210857j:plain

育波堂の前遺跡が発掘された旧北淡西中学校グラウンド

f:id:sogensyooku:20210412211017j:plain

縄文式土器出土之地

 旧北淡西中学校は、現在北淡荘老人ホームになっている。グラウンドは残っていて、片隅に「縄文式土器出土之地」と彫られた石碑が置かれている。

 縄文時代は、この日本列島で約1万年以上続いた時代で、天皇家が君臨してからの日本の歴史よりも遥かに長く続いた時代だ。日本の文化の古層は縄文にあるように思う。

 縄文時代は、不思議と日本列島全土で共通する文化様式が営まれた。あの複雑な文様の縄文土器が、東北から九州にかけて出土するのだが、なぜ広い列島のあちこちから、あんなに様式が似ている土器が出土するのだろう。

 意外と縄文時代の人々は、遠く離れた集落とも交流していたのかも知れない。

 縄文時代のことは、もっとよく知りたいと思う。

淡路市北淡歴史民俗資料館 前編

 常隆寺山中腹にある浅野公園から下って、淡路市浅野南にある淡路市北淡歴史民俗資料館を訪れた。

f:id:sogensyooku:20210411202854j:plain

淡路市北淡歴史民俗資料館

 この歴史民俗資料館は、北淡地域の遺跡から採掘された遺物や、地元出身の国学者鈴木重胤に関する資料、その他の民俗資料などを展示している。

 資料館の入口前に、種類は分らぬが、赤と白の花を一つの枝に咲かせた花があった。

f:id:sogensyooku:20210411203329j:plain

赤と白の花を付けた木

 こんな花は見たことがなかった。不思議なものだ。

 古代の淡路島は、巧みな航海能力を有した海人が住み着いていたようだ。そんな淡路の海人は大和王権に重宝された。

 「日本書紀」には、第15代応神天皇の妃を船で吉備まで送る際、船の漕ぎ手に御原(淡路国三原郡)の海人が使われたことや、第16代仁徳天皇即位前に朝鮮半島に派遣された淡路の海人のことが書かれている。

 淡路の海人たちは、弥生時代から塩や鉄器を生産していたが、様々な漁具を使って漁業に勤しんでいた。

 特に今も盛んな蛸壷漁は、弥生時代から行われていたようだ。

f:id:sogensyooku:20210411204502j:plain

弥生時代の蛸壷漁

 土器の蛸壷を海底に下して、タコが入ると引き上げて収獲した。蛸壷は、弥生時代はコップ型だったが、古墳時代には釣鐘型になった。

f:id:sogensyooku:20210411204713j:plain

弥生時代のコップ型蛸壷

f:id:sogensyooku:20210411204823j:plain

古墳時代の釣鐘型蛸壷

 また、網に錘として付けた土錘なども見つかっている。

f:id:sogensyooku:20210411204951j:plain

土錘

 淡路では、漁師が漁で網を引き上げると、海底に残された古代の漁具が網に引っ掛かっていることがあるらしい。遺跡の発掘と言うと、地上でのスコップと刷毛を持った作業をイメージするが、海底から遺物を引き上げる発掘もあるのだ。

 館の2階に上がると、淡路市仁井出身の幕末の国学者鈴木重胤に関する資料が展示されている。

f:id:sogensyooku:20210411205424j:plain

鈴木重胤肖像画

 重胤は、文化九年(1812年)に津名郡仁井村の江戸初期から続く庄屋の家に生まれた。

 重胤は14歳の時に父が亡くなり、若いころは大坂の鴻池家や神戸の橋本家に商業見習いに行った。

 23歳で、江戸にて津和野出身の国学者大国隆正に師事した。32歳の時に、京都花山院邸内の宗像神社で神威にうたれるという神秘体験をして、益々国学の研究に没頭し、秋田の平田篤胤に師事するため秋田に向かった。

 重胤が秋田に到着する前に篤胤は亡くなったが、重胤は、篤胤の墓前で篤胤の学問を継承することを誓ったという。

f:id:sogensyooku:20210411210407j:plain

鈴木重胤22歳の時の日記

 しかし重胤は、学問を深めるにつれ、篤胤の学説に異を唱えるようになり、篤胤の女婿鉄胤と対立するようになる。

 重胤は、「日本書紀」の注釈書「日本書紀伝」の執筆に没頭した。また奥羽から薩摩までを旅し、多くの紀行文や和歌を残した。

 重胤は、文久三年(1863年)、江戸の私宅で刺客に暗殺される。「日本書紀伝」はついに完成しなかったが、もし完成していたら、本居宣長の「古事記伝」に匹敵する名著になっていたという人もいる。

 館の2階には、様々な民俗資料が置かれているが、その中で目を惹かれたのは、焼夷弾の実物だった。

f:id:sogensyooku:20210411211357j:plain

焼夷弾

f:id:sogensyooku:20210411211801j:plain

 焼夷弾は、上の写真のような油と爆薬が入った筒が38本束ねられていて、上空で筒がばらばらになって落下し、紙と木で出来た日本の家屋を燃やしつくした。

 原子爆弾と並んで、日本史上最も多量の民間日本人を死傷させた兵器が、このアメリカ軍が落した焼夷弾であろう。

 焼夷弾は、日本の歴史に残る兵器だが、私は実物を初めて見た。

 私の父方の祖父母は、昭和初期に西宮で八百屋をやっていて、一家は古い民家に住んでいた。

 死んだ父から聞いた話では、西宮空襲の際に、祖父の家に不発の焼夷弾が落下した。祖父は素手焼夷弾を持って外に捨てたという。

 私は、長年祖父が大きな爆弾を抱きかかえて捨てるところを想像していたが、祖父が素手で持って捨てたのは、この小さな筒であったことをこの展示を見て理解した。

 別館に行くと、現在淡路市に居住する写真家・俳優の谷川喜一氏が寄贈したカメラが展示されていた。

f:id:sogensyooku:20210411213531j:plain

谷川喜一氏寄贈のカメラ

f:id:sogensyooku:20210411213625j:plain

f:id:sogensyooku:20210411213700j:plain

 私はかつて、手動の機械式のフィルムカメラに憧れていて、電池を使わず全て手動で動かせるニコンFやニコンF2といったカメラが欲しいと思ったことがある。

 結局は買わなかったが、カメラと言う機械は、男子のメカ好き気分と、そのメカを使って写真という芸術を創作する意欲の両方を満たしてくれる魅力的なものである。

 今やスマートフォン内蔵のカメラに押されて、従来のカメラ市場はどんどん縮小しているが、魅力的なカメラが消えていく現状は寂しいものだ。

 展示物の片隅に、湯保温器という道具が展示されているのが目についた。

f:id:sogensyooku:20210411214339j:plain

湯保温器

 左側の鉄板で覆われた穴の中に炭火を入れ、中に貯めた湯を温め、寒い日など作業中の指先を湯に浸して、手がかじかむのを防いだ道具だという。

 電気製品が充実していない頃使われたものだろう。

 生活しやすくするために道具を工夫する人間の熱意は、大したものだといつも感心する。

早良親王墓 浅野公園

 昨日紹介した常隆寺は、延暦四年(785年)に薨去した早良(さわら)親王にゆかりのある寺であった。

 かつてその早良親王の墓だったという場所が、淡路市仁井にある。だった、というのは、早良親王の遺体は、延暦十九年(800年)に、淡路の墓から大和国の八島陵に改葬されたためである。

f:id:sogensyooku:20210409201629j:plain

早良親王

f:id:sogensyooku:20210409201712j:plain

早良親王墓への案内

 早良親王は、第49代光仁天皇の第二子で、桓武天皇実弟である。一旦出家して仏門に入ったが、天応元年(781年)に兄の桓武天皇が第50代天皇に即位すると、還俗して皇太子となった。

 桓武天皇の子(後の平城天皇)がまだ幼かったため、成長するまでの中継ぎとされたのだろう。

 しかし、親王は、延暦四年(785年)、長岡京造営長官藤原種継の暗殺事件に関与したという疑いを持たれ、廃太子となり、乙訓寺に幽閉された。

f:id:sogensyooku:20210409202842j:plain

早良天皇墓の前にある早良池

 早良親王は、幽閉先で無実を訴え、抗議の断食を行ったが、聞き入れられなかった。そして乙訓寺から配流先の淡路に移送される船中で薨去したとされている。

 親王が実際に暗殺事件に関与していたかどうかは謎である。

 早良親王は、配流先に予定されていた淡路に埋葬された。その埋葬地として伝承されているのが、この早良親王墓である。

f:id:sogensyooku:20210409203259j:plain

早良親王墓の鳥居

f:id:sogensyooku:20210409203342j:plain

早良親王墓の祠

f:id:sogensyooku:20210409204249j:plain

f:id:sogensyooku:20210409204319j:plain

 親王の没後、都で皇族が続々と病死し、町では疫病が流行り、災害も起こった。人々はこれを早良親王の祟りとみなした。

 桓武天皇は、常隆寺を勅願所として祈祷を行い、早良親王に対して崇道天皇追号し、遺体を大和国八島陵に改葬し、手厚く葬った。

 崇道天皇は、天皇と呼ばれているが、実際には皇位に就かなかった天皇である。今奈良市八島町にある崇道天皇陵は、皇族の陵墓として宮内庁が管理していて、出入りが制限されているが、この淡路市早良親王墓は、今遺体が埋葬されているわけではないので、自由に入ることが出来る。

 早良親王墓の鳥居の先には、親王を祀る祠があるが、その裏に小高い丘がある。かつての円墳であろう。

f:id:sogensyooku:20210409204625j:plain

円墳

 この円墳を登っていくと、頂上付近に石が転がっている。かつての石室の跡か、墓石の跡だろうか。

 だが、丁度石が転がっている辺りから、墳丘がざっくり削られている。

f:id:sogensyooku:20210409204852j:plain

円墳頂上付近の石

f:id:sogensyooku:20210409204943j:plain

削られた円墳

 これが、早良親王が改葬された際の痕跡だろうか。しかし、延暦十九年(805年)に削った跡にしては、新しいように感じる。

f:id:sogensyooku:20210409205153j:plain

円墳の下側

 円墳の下に下りると、これもそう古くないと思われる石垣がある。この削られた墳丘については謎が残るが、いずれにしろ、地元の人々は今でも早良親王を弔うため、ここで手厚く祭礼を行っているという。

 さて、早良親王墓から次なる目的地の浅野公園に行く。公園は、淡路市浅野南にある。

 ここは、「万葉集」巻三第388の歌に歌われた浅野の地であると言われ、明治32年に郡立公園として整備された。

 桜が多く植えられ、私が訪れた時は丁度満開であった。

f:id:sogensyooku:20210409210526j:plain

浅野公園の桜

f:id:sogensyooku:20210409210607j:plain

 公園は、なだらかな斜面に長い滑り台があったりして、子連れの家族が訪れ、子供たちがはしゃいでいた。

f:id:sogensyooku:20210409211503j:plain

浅野公園

 公園の高台に、万葉歌を刻んだ歌碑がある。

f:id:sogensyooku:20210409211849j:plain

万葉歌碑

 この歌碑には、「万葉集」巻三第388の、若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)が口誦したとされる古歌が刻まれている。

海神(わたつみ)は くすしきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を 伊予に廻らし 居待月 明石の門(と)ゆは 夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干(ひ)しむ 潮騒の 波を畏(かしこ)み 淡路島 磯隠り居て いつしかも この夜の明けむと さもらふに 寐(い)の寝かてねば 滝の上の 浅野の雉(きざし) 明けぬとし 立ち騒くらし いざ子ども あへて漕ぎ出む 庭も静けむ

 今の人は、歌と言えば短歌を思い浮かべると思うが、「万葉集」の時代は、このような長歌がよく歌われた。この歌は、旅先の感懐を歌った羇旅歌とされている。
 歌意は、「海神は、霊妙な力をお持ちなのかなあ。淡路島を海の中に立て置いて、白波を伊予まで廻らし、明石海峡を通じて、夕方になれば潮を満ちさせ、朝方には潮を引かせる。そんな満ち引きの潮の音のする波が怖いので、淡路島の磯に隠れていつ夜があけるかと待っているが、なかなか寝ることができない。すると滝の上の浅野の雉が朝だと騒いでいる。さあ子供たちよ、勇気を出して船をだそう。波も静かだ」といったところか。

 この歌に歌われた浅野の地が、この浅野公園だとされている。歌中に滝が出てくるが、公園の奥に「紅葉の滝」と呼ばれる滝があり、そこが歌の滝に比定されている。

 紅葉の滝の周辺には楓が多く生えており、紅葉の季節は紅く染まって美しいらしい。

 滝の手前に鳥居があり、また滝の側には不動明王を祀った建物がある。

f:id:sogensyooku:20210409214119j:plain

浅野滝の鳥居

f:id:sogensyooku:20210409214227j:plain

紅葉の滝

f:id:sogensyooku:20210409214443j:plain

不動堂

f:id:sogensyooku:20210409214518j:plain

不動明王

 不動明王が祀ってあるということは、この滝は修験道真言行者などが滝行をした場所なのだろう。

 史跡巡りを細かくしていると、古歌に詠まれた場所を訪れる機会も巡って来る。私は全国の歌枕を訪れることも夢見ていたので、この史跡巡りで出来る限りそんな場所を訪れたいと思う。

 ここから次の目的地に向かう途中、溜池の上に枝を伸ばす桜があった。桜が緑色の水面に映って幻想的な風景を形作っていた。

f:id:sogensyooku:20210409220435j:plain

溜池の上の桜

 今年、この日でなければ撮れなかった写真だろう。

 いつの世になっても、桜の季節は人の心を浮き立たせるものと思う。

栗村山常隆寺

 円城寺から淡路市久野々(くのの)にある真言宗の寺院、栗村山常隆寺に向かった。地図を見て、最短と思える道を進んだが、これが車1台がようやく通ることができる山中の細い道で、しかもその道を約10キロメートル走らなければならなかった。対向車が来たら立往生だ。

 スイフトスポーツを買ってから、こんなにひやひやしたドライブは初めてだった。

 さて、常隆寺は、同じ淡路市の東山寺、洲本市の千光寺と並んで、淡路三山に数えられる古刹である。

 常隆寺は、淡路島北部では最も高い常隆寺山(標高515.3メートル)の頂上近くにある。

 鐘楼門のかなり下に、地面に足が埋もれた鳥居がある。

f:id:sogensyooku:20210408202344j:plain

鳥居

 この鳥居のすぐ脇を舗装道路が通っている。道路が出来る前は、この鳥居が参道の入口だったのだろう。

 聖武天皇の御代(724~748年)にこの地を巡錫した行基菩薩が、山中で輝く栗の木を見つけた。

 行基菩薩は、その栗の木を彫って十一面千手観世音菩薩像を彫り上げ、ここに安置したという。山号の栗村山は、この逸事に由来する。

f:id:sogensyooku:20210408202933j:plain

鐘楼門

f:id:sogensyooku:20210408203000j:plain

鐘楼門の仁王像

f:id:sogensyooku:20210408203042j:plain

鐘楼門にかかる梵鐘

 時代が下って、恵美押勝の乱に関わったとして天平宝字八年(764年)に廃位となり淡路に流された淳仁天皇が、父舎人親王の菩提を弔うために、行基菩薩の彫った十一面千手観世音菩薩像を本尊として、常隆寺を建立したとされている。

 その後、延暦四年(785年)、桓武天皇との皇位継承争いに敗れた早良親王が、淡路に流される途中、死去した。早良親王は淡路に葬られた。

 そのころ都で悪疫が蔓延し、天変地異が起こったことから、朝廷ではこれを早良親王の祟りであるとし、延暦十九年(800年)、早良親王崇道天皇の号を送った。

 更に延暦二十四年(805年)に、桓武天皇は、早良親王の怨念を鎮めるため、勅使を常隆寺に派遣し、ここを勅願所として寺を増建した。

 そのため、常隆寺は廃帝院霊安寺とも呼ばれていた。

f:id:sogensyooku:20210408204527j:plain

鐘楼門付近の苔の生えた道

f:id:sogensyooku:20210408204651j:plain

裏から見た鐘楼門

f:id:sogensyooku:20210408204730j:plain

鐘楼門脇の桓武天皇勅願所の碑

 この寺は、淳仁天皇早良親王という、廃位もしくは廃太子となり、淡路に配流となった2人の皇族にかかわる寺というわけだ。

 常隆寺は、永正年中(1504~1521年)の戦火で焼失したが、本尊の十一面千手観世音菩薩像は難を逃れた。

f:id:sogensyooku:20210408205658j:plain

本堂

f:id:sogensyooku:20210408205734j:plain

本堂蟇股の彫刻

f:id:sogensyooku:20210408205815j:plain

本堂内陣

 今も本堂には、行基菩薩が刻んだ十一面千手観世音菩薩像が祀られているとされている。

 本堂の横には、弘法大師を祀る大師堂がある。

f:id:sogensyooku:20210408210510j:plain

大師堂

 本堂と大師堂の間に鳥居と石段がある。ここを登っていけば、常隆寺山の頂上にある奥の院に至る。

f:id:sogensyooku:20210408210908j:plain

奥の院への登り口

 奥の院周辺は、「伊勢の森」と呼ばれ、樹齢数百年のスダジイやアカガシの大木が茂り、昼なお暗い神秘的な空気を醸し出している。

 石段を登った先にある大木は、何の木か知らぬが、四方に枝を伸ばし、自然の霊力を感じさせる立派な木だった。

f:id:sogensyooku:20210408211341j:plain

石段の先の大木

 しばらく歩くと、植樹された若い杉の木が真っ直ぐ伸びている場所がある。

f:id:sogensyooku:20210408211722j:plain

植樹された杉の木

 更に行くと、道が2つに分かれている。どっちに行っても奥の院に至るが、右側の道に行くと、地元の仁井出身の国学者鈴木重胤の歌碑がある。

f:id:sogensyooku:20210408211916j:plain

二股に分かれる道

f:id:sogensyooku:20210408211957j:plain

鈴木重胤の歌碑

 鈴木重胤は、文久三年(1863年)に常隆寺山に登り、天神地祇を拝し、「朝日かげ のぼるさかえを まつ程は 東雲ちかき こころなりけり」と詠んだ。

 日の出を待つ心を歌ったようだが、天皇の世が近くやってくる事を期待した歌のようにも読める。

 鈴木重胤はここで日本の神々を拝んだが、確かにこの常隆寺山の頂は、ある意味で聖地と呼んでいい場所である。

f:id:sogensyooku:20210408212628j:plain

常隆寺奥の院の祠

f:id:sogensyooku:20210408212707j:plain

f:id:sogensyooku:20210408212737j:plain

常隆寺山山頂の三角点

 常隆寺奥の院の石の祠も独特の雰囲気を持っているが、この場所が特別なのは、ここから四囲を眺めれば、播磨の沿岸や大阪湾岸、紀州の山々、友ヶ島、四国、小豆島を眺めることが出来ることである。

f:id:sogensyooku:20210408213147j:plain

播磨の海岸

f:id:sogensyooku:20210408213312j:plain

和泉方面と紀州の山々

f:id:sogensyooku:20210408213414j:plain

友ヶ島地ノ島沖ノ島

f:id:sogensyooku:20210408213550j:plain

小豆島方面

f:id:sogensyooku:20210408213639j:plain

四国方面

 常隆寺山山頂に立って、四方を眺め、写真に収めた。写真では分かりにくいが、肉眼だと、遠方の陸地や山々がうっすら青く見える。

 播磨や大阪の沿岸、小豆島、四国、紀州の山々を同時に眺めることが出来るのは、日本でもここだけではないか。

 上の四国方面の写真では、海の彼方に何も見えないが、現地で目を凝らすと、遠く讃岐の屋島の形が見えた。

 私は昔から、なぜ日本の神話で淡路島が国生みの島とされたのか疑問だったが、この地に立って周囲の風景を眺めて、実感することができた。淡路を中心にして、日本の島々がその周りを囲んでいるように感じるのである。

 「古事記」では、伊邪那岐命伊邪那美命は、まぐわいの後、まず淡路を産み、あとは淡路を中心にするかのように、四国、隠岐、九州、壱岐対馬佐渡、本州を産んだとされている。この八つの島からなる我が国を、「古事記」では大八嶋国と呼んでいる。

 「古事記」「日本書紀」の国生みの伝承には、遥か昔にこの地から四囲を見渡した人が感じた「ここが大八嶋国の中心だ。ここから日本の島々が生まれたんだ」という気持ちが含まれているに違いない。

 頭上を見上げれば、太陽が輝いている。太陽の下に浮かぶ日本の島々。ここに来て、国生み神話を身近な現実のように感じた。

慈雲山円城寺

 八浄寺から西へ車を走らせ、山奥の細い道を登っていく。

 淡路市佐野の奥地にある真言宗寺院が、慈雲山円城寺である。

 この寺は桜で有名だが、私が訪れた3月27日には、まだ3月だというのに、八分咲きになっていた。

 境内は桜で覆われ、伽藍が見えないほどである。

f:id:sogensyooku:20210407203108j:plain

慈雲山円城寺

f:id:sogensyooku:20210407203148j:plain

 またこの寺は、躑躅でも有名であり、5月になれば今度は躑躅が咲き誇り、全山が仙境のようになるという。

 寺院の裏山にも桜が植えられていて、まばらながら花見客が散策している。寺には全部で約450本の桜が植えられているという。

f:id:sogensyooku:20210407203818j:plain

寺院の裏山の桜

 円城寺の歴史は、判然としない。昨日紹介した八浄寺の奥の院だと言われている。

 御本尊は、2体の聖観世音菩薩立像である。平安時代の作で、ふくよかな面相と、しなやかな姿態を持つ像であるらしい。この2体の仏像を地元では夫婦観音と呼んでいるそうだ。

f:id:sogensyooku:20210407204431j:plain

本堂

f:id:sogensyooku:20210407204510j:plain

 御本尊は本堂に祀られているのだろうが、丁度堂内では法要が行われていて、僧侶の読経の声が聞こえてきた。

 御本尊は、兵庫県指定文化財となっている。秘仏であるが、毎年4月10日の会式で御開帳される。その時は、数多くの参拝客がこの寺を訪れるという。

 本堂の隣には、鎮守の金毘羅大権現が祀られた祠がある。

f:id:sogensyooku:20210407205006j:plain

金毘羅大権現鳥居

f:id:sogensyooku:20210407205047j:plain

金毘羅大権現拝殿

f:id:sogensyooku:20210407205128j:plain

金毘羅大権現本殿

 金毘羅大権現は、元々はインドのガンジス川に棲む鰐を神格化したクンビーラという水神で、仏教に取り入れられて薬師如来を守護する十二神将の筆頭の神様になった。

 役小角が讃岐の象頭山を訪れた時に、クンビーラの神験に遭い、そこに金毘羅大権現を祀ったのが、今の金刀比羅宮の起こりである。

 金毘羅大権現の前には、桜の花がたわわに咲いている。

f:id:sogensyooku:20210407210748j:plain

金毘羅大権現前の桜

f:id:sogensyooku:20210407210828j:plain

 年を取ってくると、いつ自分が死ぬか分からないという気持ちになってくる。来年桜を見ることが出来るかな、などと思うようになってくる。円城寺の桜を眺めて、今年も桜を見ることが出来たと思った。

 金毘羅大権現の近くに、古そうな石造五輪塔を祀った場所があった。何か由来があるのだろう。

f:id:sogensyooku:20210407211336j:plain

石造五輪塔

 本堂の先には、客殿がある。客殿に至る石段の周囲にも桜が咲き誇っていた。

f:id:sogensyooku:20210407211733j:plain

客殿の周囲の桜

f:id:sogensyooku:20210407211818j:plain

 客殿は桜雲閣という名称のようだ。客殿の西側と南側に、昭和58年に築かれた庭園、寿楽苑があるらしい。名園として評価が高いらしいが、公開はされておらず、見学することは出来なかった。

f:id:sogensyooku:20210407212027j:plain

桜雲閣

f:id:sogensyooku:20210407212104j:plain

 庭園の中には茶亭があるそうだ。桜を眺めながら茶を喫するなど、最高の贅沢であろう。

 桜を見ると気分が晴々する。新しい季節がやってきた、と感じて気分が高揚する。来年の今頃は、どの史跡の桜を眺めていることだろう。