淡路市北淡歴史民俗資料館 前編

 常隆寺山中腹にある浅野公園から下って、淡路市浅野南にある淡路市北淡歴史民俗資料館を訪れた。

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淡路市北淡歴史民俗資料館

 この歴史民俗資料館は、北淡地域の遺跡から採掘された遺物や、地元出身の国学者鈴木重胤に関する資料、その他の民俗資料などを展示している。

 資料館の入口前に、種類は分らぬが、赤と白の花を一つの枝に咲かせた花があった。

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赤と白の花を付けた木

 こんな花は見たことがなかった。不思議なものだ。

 古代の淡路島は、巧みな航海能力を有した海人が住み着いていたようだ。そんな淡路の海人は大和王権に重宝された。

 「日本書紀」には、第15代応神天皇の妃を船で吉備まで送る際、船の漕ぎ手に御原(淡路国三原郡)の海人が使われたことや、第16代仁徳天皇即位前に朝鮮半島に派遣された淡路の海人のことが書かれている。

 淡路の海人たちは、弥生時代から塩や鉄器を生産していたが、様々な漁具を使って漁業に勤しんでいた。

 特に今も盛んな蛸壷漁は、弥生時代から行われていたようだ。

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弥生時代の蛸壷漁

 土器の蛸壷を海底に下して、タコが入ると引き上げて収獲した。蛸壷は、弥生時代はコップ型だったが、古墳時代には釣鐘型になった。

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弥生時代のコップ型蛸壷

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古墳時代の釣鐘型蛸壷

 また、網に錘として付けた土錘なども見つかっている。

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土錘

 淡路では、漁師が漁で網を引き上げると、海底に残された古代の漁具が網に引っ掛かっていることがあるらしい。遺跡の発掘と言うと、地上でのスコップと刷毛を持った作業をイメージするが、海底から遺物を引き上げる発掘もあるのだ。

 館の2階に上がると、淡路市仁井出身の幕末の国学者鈴木重胤に関する資料が展示されている。

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鈴木重胤肖像画

 重胤は、文化九年(1812年)に津名郡仁井村の江戸初期から続く庄屋の家に生まれた。

 重胤は14歳の時に父が亡くなり、若いころは大坂の鴻池家や神戸の橋本家に商業見習いに行った。

 23歳で、江戸にて津和野出身の国学者大国隆正に師事した。32歳の時に、京都花山院邸内の宗像神社で神威にうたれるという神秘体験をして、益々国学の研究に没頭し、秋田の平田篤胤に師事するため秋田に向かった。

 重胤が秋田に到着する前に篤胤は亡くなったが、重胤は、篤胤の墓前で篤胤の学問を継承することを誓ったという。

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鈴木重胤22歳の時の日記

 しかし重胤は、学問を深めるにつれ、篤胤の学説に異を唱えるようになり、篤胤の女婿鉄胤と対立するようになる。

 重胤は、「日本書紀」の注釈書「日本書紀伝」の執筆に没頭した。また奥羽から薩摩までを旅し、多くの紀行文や和歌を残した。

 重胤は、文久三年(1863年)、江戸の私宅で刺客に暗殺される。「日本書紀伝」はついに完成しなかったが、もし完成していたら、本居宣長の「古事記伝」に匹敵する名著になっていたという人もいる。

 館の2階には、様々な民俗資料が置かれているが、その中で目を惹かれたのは、焼夷弾の実物だった。

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焼夷弾

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 焼夷弾は、上の写真のような油と爆薬が入った筒が38本束ねられていて、上空で筒がばらばらになって落下し、紙と木で出来た日本の家屋を燃やしつくした。

 原子爆弾と並んで、日本史上最も多量の民間日本人を死傷させた兵器が、このアメリカ軍が落した焼夷弾であろう。

 焼夷弾は、日本の歴史に残る兵器だが、私は実物を初めて見た。

 私の父方の祖父母は、昭和初期に西宮で八百屋をやっていて、一家は古い民家に住んでいた。

 死んだ父から聞いた話では、西宮空襲の際に、祖父の家に不発の焼夷弾が落下した。祖父は素手焼夷弾を持って外に捨てたという。

 私は、長年祖父が大きな爆弾を抱きかかえて捨てるところを想像していたが、祖父が素手で持って捨てたのは、この小さな筒であったことをこの展示を見て理解した。

 別館に行くと、現在淡路市に居住する写真家・俳優の谷川喜一氏が寄贈したカメラが展示されていた。

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谷川喜一氏寄贈のカメラ

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 私はかつて、手動の機械式のフィルムカメラに憧れていて、電池を使わず全て手動で動かせるニコンFやニコンF2といったカメラが欲しいと思ったことがある。

 結局は買わなかったが、カメラと言う機械は、男子のメカ好き気分と、そのメカを使って写真という芸術を創作する意欲の両方を満たしてくれる魅力的なものである。

 今やスマートフォン内蔵のカメラに押されて、従来のカメラ市場はどんどん縮小しているが、魅力的なカメラが消えていく現状は寂しいものだ。

 展示物の片隅に、湯保温器という道具が展示されているのが目についた。

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湯保温器

 左側の鉄板で覆われた穴の中に炭火を入れ、中に貯めた湯を温め、寒い日など作業中の指先を湯に浸して、手がかじかむのを防いだ道具だという。

 電気製品が充実していない頃使われたものだろう。

 生活しやすくするために道具を工夫する人間の熱意は、大したものだといつも感心する。