円城寺から淡路市久野々(くのの)にある真言宗の寺院、栗村山常隆寺に向かった。地図を見て、最短と思える道を進んだが、これが車1台がようやく通ることができる山中の細い道で、しかもその道を約10キロメートル走らなければならなかった。対向車が来たら立往生だ。
スイフトスポーツを買ってから、こんなにひやひやしたドライブは初めてだった。
さて、常隆寺は、同じ淡路市の東山寺、洲本市の千光寺と並んで、淡路三山に数えられる古刹である。
常隆寺は、淡路島北部では最も高い常隆寺山(標高515.3メートル)の頂上近くにある。
鐘楼門のかなり下に、地面に足が埋もれた鳥居がある。
この鳥居のすぐ脇を舗装道路が通っている。道路が出来る前は、この鳥居が参道の入口だったのだろう。
聖武天皇の御代(724~748年)にこの地を巡錫した行基菩薩が、山中で輝く栗の木を見つけた。
行基菩薩は、その栗の木を彫って十一面千手観世音菩薩像を彫り上げ、ここに安置したという。山号の栗村山は、この逸事に由来する。
時代が下って、恵美押勝の乱に関わったとして天平宝字八年(764年)に廃位となり淡路に流された淳仁天皇が、父舎人親王の菩提を弔うために、行基菩薩の彫った十一面千手観世音菩薩像を本尊として、常隆寺を建立したとされている。
その後、延暦四年(785年)、桓武天皇との皇位継承争いに敗れた早良親王が、淡路に流される途中、死去した。早良親王は淡路に葬られた。
そのころ都で悪疫が蔓延し、天変地異が起こったことから、朝廷ではこれを早良親王の祟りであるとし、延暦十九年(800年)、早良親王に崇道天皇の号を送った。
更に延暦二十四年(805年)に、桓武天皇は、早良親王の怨念を鎮めるため、勅使を常隆寺に派遣し、ここを勅願所として寺を増建した。
そのため、常隆寺は廃帝院霊安寺とも呼ばれていた。
この寺は、淳仁天皇と早良親王という、廃位もしくは廃太子となり、淡路に配流となった2人の皇族にかかわる寺というわけだ。
常隆寺は、永正年中(1504~1521年)の戦火で焼失したが、本尊の十一面千手観世音菩薩像は難を逃れた。
今も本堂には、行基菩薩が刻んだ十一面千手観世音菩薩像が祀られているとされている。
本堂の横には、弘法大師を祀る大師堂がある。
本堂と大師堂の間に鳥居と石段がある。ここを登っていけば、常隆寺山の頂上にある奥の院に至る。
奥の院周辺は、「伊勢の森」と呼ばれ、樹齢数百年のスダジイやアカガシの大木が茂り、昼なお暗い神秘的な空気を醸し出している。
石段を登った先にある大木は、何の木か知らぬが、四方に枝を伸ばし、自然の霊力を感じさせる立派な木だった。
しばらく歩くと、植樹された若い杉の木が真っ直ぐ伸びている場所がある。
更に行くと、道が2つに分かれている。どっちに行っても奥の院に至るが、右側の道に行くと、地元の仁井出身の国学者鈴木重胤の歌碑がある。
鈴木重胤は、文久三年(1863年)に常隆寺山に登り、天神地祇を拝し、「朝日かげ のぼるさかえを まつ程は 東雲ちかき こころなりけり」と詠んだ。
日の出を待つ心を歌ったようだが、天皇の世が近くやってくる事を期待した歌のようにも読める。
鈴木重胤はここで日本の神々を拝んだが、確かにこの常隆寺山の頂は、ある意味で聖地と呼んでいい場所である。
常隆寺奥の院の石の祠も独特の雰囲気を持っているが、この場所が特別なのは、ここから四囲を眺めれば、播磨の沿岸や大阪湾岸、紀州の山々、友ヶ島、四国、小豆島を眺めることが出来ることである。
常隆寺山山頂に立って、四方を眺め、写真に収めた。写真では分かりにくいが、肉眼だと、遠方の陸地や山々がうっすら青く見える。
播磨や大阪の沿岸、小豆島、四国、紀州の山々を同時に眺めることが出来るのは、日本でもここだけではないか。
上の四国方面の写真では、海の彼方に何も見えないが、現地で目を凝らすと、遠く讃岐の屋島の形が見えた。
私は昔から、なぜ日本の神話で淡路島が国生みの島とされたのか疑問だったが、この地に立って周囲の風景を眺めて、実感することができた。淡路を中心にして、日本の島々がその周りを囲んでいるように感じるのである。
「古事記」では、伊邪那岐命、伊邪那美命は、まぐわいの後、まず淡路を産み、あとは淡路を中心にするかのように、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州を産んだとされている。この八つの島からなる我が国を、「古事記」では大八嶋国と呼んでいる。
「古事記」「日本書紀」の国生みの伝承には、遥か昔にこの地から四囲を見渡した人が感じた「ここが大八嶋国の中心だ。ここから日本の島々が生まれたんだ」という気持ちが含まれているに違いない。
頭上を見上げれば、太陽が輝いている。太陽の下に浮かぶ日本の島々。ここに来て、国生み神話を身近な現実のように感じた。