蓮台山八浄寺

 御井の清水から国道28号線を南下し、淡路市佐野にある蓮台山八浄寺を訪れた。

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蓮台山八浄寺

 ここは真言宗の寺院である。淡路には、淡路七福神と言って、七福神の神様それぞれを祀る寺が七つある。

 この八浄寺は、淡路七福神の総本院であり、淡路七福神霊場会の事務局が置かれている。

 淡路七福神は、淡路島を七福神が乗る宝船に見立てて巡拝するもので、その気になれば1日で全て巡ることが出来る。淡路七福神を巡れば、七つの幸福を得ることが出来るとされている。

 淡路七福神巡りは、縁起が良くて御利益があるとされ、霊場巡りとしてはコンパクトで手軽なため、意外な人気を持っている。

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淡路七福神のポスター

 七福神は、恵比須、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋の七柱の神様である。

 恵比須は日本の神様であり、大黒天、毘沙門天、弁財天は元々インドの神様で、仏教に取り入れられた。福禄寿、寿老人は道教の神様、布袋は中国に実在した禅僧である。

 七福神信仰は、長い時をかけて日本の民衆の間に広まった日本独特の信仰である。

 八浄寺は真言宗の寺院であるが、元々真言密教の教義と七福神は何の関係もない。しかし宇宙に存在するあらゆるものを大日如来の発現とみなす真言密教の考え方からすれば、七福神大日如来の化身であり、教えの中に包摂することができる。いつしか真言宗は、七福神信仰をも飲み込んだ。

 この八浄寺は、大黒天を祀る寺である。

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八浄寺の鳥居

 八浄寺の門前には、寺院なのに桜の木で組まれた鳥居がある。そこに扁額ではなく、竹の塵取り二つを重ね合わせて、その上に「弁財天」と書いたものが掛けられている。

 大黒天を祀る寺院なのに、なぜ弁財天なのかと疑問に思ったが、後で調べると、淡路島には江戸時代中期から淡路巡遷妙音(通称回り弁天)という行事が行われており、それに関係していることが分かった。

 江戸時代中期に佐野に住んでいた目の不自由な男性が高野山を参拝し、そこで授けられた弁財天の掛け軸を淡路に持ち帰って拝むと、視力が回復したという。

 その後、この掛け軸は、1年ごとに淡路島内の寺院が持ち回りで祀ることになった。毎年12月6日に掛け軸が当番の受け入れ寺院に到着し、翌年12月5日に次の受け入れ寺院に向け出発するという。

 今年は、八浄寺が回り弁天の掛け軸を祀っているそうだ。

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仏心開花の山門

 鳥居を潜ると、仏心開花の山門がある。山門の床には、仏教の慈悲の象徴である蓮弁が彫られ、そこに光明真言梵字が刻まれている。

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蓮弁

 光明真言は、破地獄の真言と呼ばれ、唱えれば無明を除き、人を悟りに導く絶大な功徳があるとされる真言である。

 山門を潜って境内に入ると、目に入るのは巨大な金属製の塔である。

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瑜祇七福宝塔

 瑜祇七福宝塔というらしい。近づいて触ってみると、金属とコンクリートで出来ているのが分かった。白色の部分は金属だが、表面は滑らかで、太陽光を反射してぴかぴかしている。

 これを見ると、ついつい私の世代が幼いころに放送されていた、ロボットアニメの「ゲッターロボ」のゲッター1に似ていると思った。ゲッター1も赤と白でカラーリングされた巨大ロボだった。

 一度そう思うと、もうこの塔がゲッター1にしか見えなくなった。瑜祇七福宝塔の御本尊は大日如来だそうだが、宇宙の全てを大日如来の顕現と説く真言宗の教理からすれば、架空のヒーロー、ゲッター1も大日如来の化身なわけで、私の見方も教えに反しているわけではない。

 この塔は、年三回の秘仏の大黒天が開帳される日に合わせて開扉される。扉の中に、色鮮やかに描かれた「仏教絵図」があり、太陽光が塔の上から自動で差し込む構造となっているという。太陽光は、光の柱となって地下まで届き、地下にある巨大な水晶に反射して四方に放射されるそうだ。

 瑜祇七福宝塔の前には、七福神の石像が置かれていた。

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七福神の石像

 七福神の背後の石は、中国庭園でよく見られる石灰石の太湖石である。

 境内には弘法大師空海を祀った大師堂があるが、蟇股の彫刻が、三鈷の松であった。

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大師堂

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三鈷の松の彫刻

 空海が唐で真言密教を修得して帰国する際、日本にて教えを広めるための道場をどこに開くべきか、仏様に導いてもらうため、師の恵果和尚から授かった三鈷杵を唐の浜辺から日本に向けて投げた。

 帰国した空海が、山野を跋渉していた時、高野山の松に自分が唐から投げた三鈷杵が引っ掛かっているのを見つけて、ここに真言密教の道場を開くことに決めたという。

 彫刻には、松に掛かった三鈷杵が彫られている。ちなみにこの三鈷杵の実物は、飛行三鈷杵という名の寺宝として、高野山に今も伝わっている。

 大師堂には、弘法大師像が中央に祀られ、愛染明王像、不動明王像が左右に祀られている。

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弘法大師

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愛染明王

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不動明王

 どれも新しい像だが、弘法大師像の表情が、威厳を感じさせるいいお顔付だった。

 本堂前には、七福神の手から浄水が流れ出る洗心場がある。

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洗心場

 本堂は、新しいものだが、堂々とした建物である。

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本堂

 八浄寺は、応永年間(1394~1427年)に、開基心了法師が御本尊阿弥陀如来像を造立して安置したのが始まりという。最初は浄満寺と呼ばれていたようだ。延宝年間(1673~1681年)に盛奝上人が、円融山浄満寺を中興した。その後、八幡神社別当寺の平松山八幡寺と合併して、蓮台山八浄寺と改称された。

 本堂に上がり、左手に行くと、高さ2メートルの大黒天の木像がある。

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大黒天像

 大黒天の木像としては、日本最大級らしい。この派手な大黒天像の背後に厨子があり、そこに秘仏の大黒天像が祀られている。

 大黒天は、ヒンドゥー教の破壊と創造の神、シヴァ神のことで、密教に取り入れられ、仏法の守護神の一柱となった。日本に渡って大国主神と習合された。

 昔は漫画のキャラクターのように描かれる七福神に関心を持たなかったが、それぞれの神様の由来を知ると、何だか興味深くなってきた。特にこんな福々しい大黒天が、元はインドの破壊と創造の神だったというのが面白い。

 長年生き続けると、人生のつらい裏面も見えてくるが、結局幸福もそれと同じところから生じているのが分かって来る。

 大黒天のにこやかな顔を見ていると、清濁併せ呑んで自足する人生の達人を見るかのように感じる。

 

御井の清水

 舟木石上神社から東に走り、大阪湾側に出る。淡路島北部は、東西の幅が狭く、車であれば、大阪湾側と瀬戸内海側を短時間で行き来できる。

 神戸淡路鳴門自動車道の東浦ICの出入口付近は、佃遺跡という、縄文時代後期の遺跡としては西日本最大級の遺跡が発掘された場所である。

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佃遺跡のあった辺り

 今は畑が広がるばかりで、遺跡が発掘されたことを示すものは何もない。

 縄文時代後期は、東日本の方が人口密度が高く、西日本には、人はまばらにしか住んでいなかった。当時この地に大きな集落があったことは、何を意味するのだろうか。

 さて、ここから国道28号線を南下する。淡路市釜口の釜口バス停の辺りは、縄文時代早期の遺跡、船頭ヶ内遺跡が発掘されたあたりとなる。

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船頭ヶ内遺跡のあった辺り

 ここからは縄文時代早期の押型文土器が発掘されたそうだ。縄文時代早期は、約1万年前である。気の遠くなるような昔に、人々はここで命をつないでいたわけだ。恐らく漁労をしていたのだろう。

 さて、国道28号線を更に南下する。

 淡路市佐野小井にある御井(おい)の清水を訪れた。

 佐野小井のバス停近くに産直淡路という売店がある。その脇から山に登っていく。この道は狭いので、車では入らない方がいい。私は徒歩で登ったが、かなりの急坂で、ゆっくり歩いても息が上がった。

 麓から約15分歩いて、御井の清水に辿り着いた。

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御井の清水

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 この史跡については、「古事記」の仁徳天皇の条に、次のような記載がある。

 兔寸(とのき)河の西(今の大阪府高石市富木)に、朝日が当たれば影が淡路島に及び、夕日が当たれば影が高安山生駒山系の山)に及ぶ非常に高い木があった。

 その木を伐って船を造ると、とても速く進む船が出来た。その船を枯野(からの)と名付け、朝夕淡路島に遣わして寒泉(しみず)を汲んで、大御水(おおみもい)として天皇に献上した。

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御井の清水

 その寒泉の水が、この御井の清水であるとされている。

 ところが「日本書紀」では、枯野が建造されたのは、仁徳天皇の父の応神天皇の時代のこととされており、天皇伊豆国の人々に命じて造らせたとある。「日本書紀」には、「古事記」にある巨木の話や淡路の清水の話は出て来ない。

 「古事記」「日本書紀」は奈良時代初期に成立した文書で、応神・仁徳朝は、考古学上は西暦400年ころのこととされている。その差は約300年である。

 「古事記」「日本書紀」の伝承に多少の違いがあるが、それは逆に言えば、根拠となった伝承が何通りかあったということである。もし記紀の内容の全てが、奈良時代の朝廷が創作した作り話だったとしたら、話は全て合わせてあるはずである。

 昭和になって発掘された埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣には文字が刻まれていた。5世紀後半の鉄剣とされている。この発掘で、5世紀後半の日本で文字が使われていたことが確定した。

 5世紀後半の人々からすれば、仁徳天皇の時代は祖父母世代の時代である。応神・仁徳朝に文字がなかったとしても、5世紀後半の人は、親や祖父母から、口伝で祖父母やその前の時代のことを聞いて、文字に残したことだろう。

 それらの文字資料を基にして、奈良時代初期に「古事記」「日本書紀」が編纂されたとしたら、少なくとも応神・仁徳朝以降の記紀の記事は、全くの架空の話ではなく、それなりに言い伝えられてきた話であると考えられる。

 そして先ほども言ったように、記紀の基になった文字資料は、今は現存していないが、当時は数種類残っていたものと思われる。

 「日本書紀」は、「ある書に曰く」と書いて、異説を何通りも紹介している。「古事記」の太安万侶の序文を読むと、天武天皇から、古来からの伝承(帝紀旧辞)には誤りが多くあるから、それを正すように命じられたと書いてある。

 戦後の歴史学者には、戦前の皇国史観の反動で、記紀に書かれていることは全て朝廷による作り話と主張する者がいたが、これもある思想に立脚したおよそ学問的でない見方である。

 ところで、仁徳天皇が、このような清水をわざわざ船で運ばせたのは、大げさではないかとも思ったが、仁徳天皇が皇居とした高津宮が、当時は海に面していたことを思い出した。

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仁徳天皇の時代の大阪(国土交通省のホームページより)

 仁徳天皇の時代の大阪は、海が上町台地(今の大阪城の辺り)まで迫っていて、上町台地の東側には、草香江という淡水湖があった。

 記紀によれば、仁徳天皇は洪水対策のため、上町台地を掘削して堀江という運河を築かせ、草香江の水を大阪湾に逃がしたという。

 高津宮は、堀江のすぐ南側にあったという。つまり、当時の皇居は大阪湾に面していて、枯野号を漕ぎ出せば、対岸の淡路にはすぐに行くことが出来た。

 まさか水だけを運ぶために船を出したわけではあるまい。淡路は天皇に食材を献上する御食つ国(みけつくに)だったので、様々な食材を船で運んだことだろう。もちろん海産物はすぐに腐るので、船で早く運ぶ必要があったに違いない。枯野号は、水の抵抗の少ない滑らかな木材で造られた船だったろう。淡路の海人は、船の漕ぎ手として活躍した。

 その伝承の中で、御井の清水の話がクローズアップされ、「古事記」に書かれたのだと思われる。

 さて、急坂を登って喉が渇いた。あいにくお茶も何も携帯していなかった。御井の清水を覆う建物には、柄杓が掛けてあり、建物に掛けられた網を取って水を汲むことが出来た。

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御井の清水

 喉が渇いていたせいか、冷たい清水はとても美味しかった。かつて仁徳天皇がお飲みになった水だと思いながら、喉を潤した。

舟木石上神社

 北淡震災記念公園から南東に車を走らせる。2キロメートル弱進むと、丘陵と溜池がまだらに広がる舟木地区に至る。

 この舟木地区に不思議な神社がある。今流に言えば、パワースポットだろう。それが舟木石上(ふなきいわがみ)神社である。

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舟木石上神社の鳥居

 この神社は、古代の磐座(いわくら)と思われる巨石群を祀っている。

 今年2月9日の当ブログ「伊勢久留麻神社 勝福寺」の記事で紹介したが、昭和55年のNHKの特番で、北緯34度32分上に、太陽信仰にまつわる聖地が並んでいるという説が放送された。

 この舟木石上神社もその線上に存在する聖地であるという。

 舟木石上神社の鳥居の脇を見て驚いた。「女人禁制」と赤字で刻まれた石が建てられているのである。

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女人禁制と刻まれた石

 大峰山岡山県美作市後山にある道仙寺のように、修験道に関係する山で、女人禁制となっている所が現代にもあることは知っていたが、神社の境内が女人禁制になっている例は初めて見た。

 しかもこの石、決して古いものではない。文字に塗られた赤色も、最近塗られたものに見える。つまり、今現在も女人禁制はしっかり守られているようだ。

 一体ここはどんな場所なのだ。鳥居脇に説明板があった。

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説明板

 この説明板の説明を読んでも、今一つ腑に落ちない。ここは太陽信仰の聖地で、天照皇大神大日如来の両者を祀っており、日を迎える座として男性が祭事を行うことになっているらしい。また、里人が固く現在までその祭事を守っていることが強調されている。

 更に地元では、舟木石上神社は、舟木石神座と呼ばれていることが分かった。

 鳥居を潜って奥に進む。

 この神社に拝殿や本殿はない。巨石群そのものを神体として祀る太古の信仰の形を現在に残している。

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石神座

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 境内で最も大きな石の前に、ささやかな祠が安置されているが、その祠の中に神様がいるわけではあるまい。主役はあくまで巨石である。

 裏手に回ると、巨石の周りの木々の間に紐が張り巡らされており、中が禁足地であることが示されている。

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巨石群

 また、正面の巨石の向かって左手に、小さな石が立っていて、その周りに紙垂を付けた竹の枝が立てられていた。

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神籬

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 古代には、今のような神社の社殿はなく、山や石や木そのものを神様として崇拝していた。

 祭儀を行うときは、周囲を玉垣で囲んだ樹木に注連縄を巻いて、神様が降臨するための依り代(よりしろ)にしたという。これを神籬(ひもろぎ)と呼ぶ。

 現代でも地鎮祭の時に、台の上に紙垂を付けた榊を立てて、神様が降りてくる依り代にしているのを見かける。

 この小さな石も依り代に見える。原始の神道祭儀がそのまま残っているようだ。

 さて、女人禁制だからと言って、この石神座を女性が拝めないわけではない。鳥居の横には、女性用の参拝路がある。

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女性用参拝路

 女性用参拝路を進むと、境内の脇から石神座を拝めるようになっている。ちゃんと賽銭箱も置いてある。

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女性のための参拝場所

 女性用参拝路を奥に進むと、お稲荷さんがある。

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稲荷社

 この稲荷社の鳥居は木製だが、枝の根本を削らずに残した不思議な鳥居だった。

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稲荷社の鳥居

 何か意味があるのだろうか。

 舟木石上神社は、小さな丘の上にあるが、丘全体が紐で囲まれており、禁足地とされているのが分かる。

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禁足地となっている丘

 最近、日本文化の基層は何かということを考えるようになった。天皇家(大王家)が日本に君臨する前から日本列島に人は住んでいた。その頃の日本人の持った文化が、日本文化の基層だと思うが、文化の層を掘り進んでいくと、最後はこのような自然崇拝に突き当たるように思う。

 天皇以前の日本というものを考えると、列島を構成する山や巨石や巨木や海や滝の崇拝が精神生活の中心だったろう。更に煎じ詰めれば、この列島そのものが御神体であるという考えに行きつくように思う。

 これは、神州不滅というような観念的な国体観ではなく、具体的な物としての列島を崇めるという素朴な考え方である。

 さて、舟木石上神社の周辺には、国指定史跡に指定される予定の舟木遺跡がある。舟木遺跡は、弥生時代後期とされる1世紀から3世紀前半にかけて、鉄器を生産していた集落の跡で、鉄製の漁具や中国製の鏡の一部、竪穴住居跡などが見つかった。

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舟木遺跡が発掘された辺り

 この舟木遺跡では、畿内よりも先に鉄器が生産されていたらしい。弥生時代の日本は、鉄器の大半を朝鮮半島からの輸入に頼っていたとされる。鉄器を生産していたこの地は、古代の先進地域だったと言える。

 舟木遺跡と舟木石上神社は近接している。おそらく弥生時代のころからあの巨石群はあって、人々に崇拝されていたことだろう。

 文字資料がなくて、そのころのことは靄の中にあるようでよく分からないが、現代に残る女人禁制と神籬のしきたりが、当時の人々の精神の在り方を示しているように思われる。

北淡震災記念公園 後編

 野島断層保存館の南側には、断層が敷地内を走っていた民家が、メモリアルハウスとして保存されている。

 下の写真の民家の塀の形を見ればわかるが、建物が建っている敷地の上半分が横にずれてしまっている。

 建物の中は、凄まじい揺れに見舞われたことだろう。

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震災直後のメモリアルハウス

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塀の外の断層のずれ

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 野島断層保存館の中ではあれだけ明瞭に段差が残っていた断層も、館の外に出ると写真のように風化して、表面に草が生え、なだらかになっている。すべてを風化させる時の力をここでも感じる。

 メモリアルハウスは、中に入って見学することが出来る。

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メモリアルハウス

 この民家が、活断層の真上で原型を保っているところを見ると、骨組みは鉄筋なのだろう。

 建物内には、「地震直後の台所」を再現した展示があった。

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地震直後の台所

 この台所は、地震直後の散らかった状態ををそのまま保存しているわけではなく、一度片づけられた台所を利用して、震災直後の状態を再現したものである。

 また座敷では、地震前の水平ラインと現在の梁のずれを比較して、家屋の傾きを展示してあった。

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地震後の家屋の傾き

 住んでいる家が、横に約1.2メートル動くという経験は、想像もつかない。

 メモリアルハウスを出て、西側の敷地を見ると、敷地内を走る断層の段差を確認することが出来る。

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メモリアルハウス敷地内の活断層

 メモリアルハウスを出て、隣に建つ活断層ラボを見学する。ここには、日本全国の活断層についての展示や、液状化現象についての展示があった。

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日本の活断層

 日本全国の活断層を表示した地図を見ると、日本列島は、いつ疼いてもおかしくない古傷を数多く抱えているように見える。

 活断層ラボを出て、震度7の揺れを体験できる震災体験館に入る。

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震災体験館

 震災体験館では、直下型地震だった阪神・淡路大震災の揺れと、海溝型地震だった東日本大震災の揺れの両方を体験できるが、私が訪れた日は、阪神・淡路大震災の揺れしか再現されていなかった。

 固定されたソファや椅子が置かれた架空のリビングに座って、震度7の揺れを体験してみた。

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震災体験コーナー

 大きな揺れが2度来たが、今まで体感したことのない大きな揺れで、1度目の揺れの時は、もしこの揺れが心の準備も何もないときに来たら、かなりの恐怖と動揺を感じただろうと思った。

 揺れている間は、文字通りどうしようもない状態で、「机の下にもぐろう」と考える暇もないのではないかと思う。

 見学を終えて、公園に建つセミナーハウスの前に行ってみると、小ぶりながらよく花が咲いている桜の木があった。

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セミナーハウス前の桜

 地震の展示は恐るべきものだったが、この桜を眺めて少し気持ちが落ち着いた。

 北淡震災記念公園には、意外と子供連れの家族が多く訪れていた。子供が多く訪れることを考えると、地震の破壊力の展示だけでなく、震災に際して人々がどれだけ助け合ったかという展示もしたら良いのではないかと思った。

 天災は忘れた頃にやってくると言われるが、最近は忘れないうちに天災が訪れているように思う。

 人間は傷つきやすい生身の生き物であり、住んでいる環境も無菌状態の管理された安全な場所というわけではない。

 人間が生きていく上で、疫病や災害や人間同士の争いに遭遇し、それを乗り越えていかねばならない状況は、いつまで経っても続いていくものと思われる。

北淡震災記念公園 中編

 阪神・淡路大震災では、淡路島北西部において、野島断層が長さ約10キロメートルに渡ってずれた。

 最大で約1.2メートルの上下の段差と約2メートルの横ずれが生じた。

 野島断層の地面のずれが最も明瞭に現れたのは、淡路市(旧北淡町)小倉地区であった。

 小倉地区に現れた断層のずれ約185メートルが国の天然記念物に指定された。野島断層保存館は、断層を風化から防ぐために断層の上に建てられた建物である。

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野島断層のずれ

 上の写真は、現在野島断層保存館が建っている場所を震災直後に空撮したものである。断層のずれが、写真の上から下に走り、民家の敷地内を通っているのが見て取れる。

 写真の上が北である。西側(左側)が海側で、東側(右側)が山側になる。

 震災では、淡路市小倉地区の野島断層の山側地面が、約50センチメートル持ち上がり、更に南に最大約1.5メートルずれた。

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野島断層のずれ

 写真の民家は、メモリアルハウスとして北淡震災記念公園内にそのまま残されている。この民家の北側に、現在野島断層保存館が建っている。

 野島断層保存館の見学順路は、断層のずれを北から南にかけて見学するようになっている。

 最初の見学箇所は、破壊された道路である。アスファルト舗装の三叉路の真下を断層が通っていたので、道路は破壊された。

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破壊された道路

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保存されている破壊された道路

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 道路の脇には側溝があるが、ずれて壊れてしまっている。この側溝が元々はつながっていたのだ。地面全体が横ずれしたのが実感できる。

 道路の南側で断層は主断層と副断層の二つに分かれている。

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二つに分かれた断層

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二つに分かれた断層(当時の写真)

 断層は地表で二つに分かれているが、地下の深い層では一つであったようだ。

 途中、生け垣に囲まれた小さな祠があったが、その場所で断層はまた一つになった。      

 生け垣の木々や、生け垣に沿った排水溝と畝までがずれてしまった。

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ずれた生け垣と畝

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ずれた生け垣

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ずれた畝と排水溝

 祠のあった場所で一つになった断層は、地割れや陥没を起こしながら続き、途中畦道もずらした。

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断層が起こした地割れや陥没

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ずれた畦道

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ずれた畦道

 野島断層保存館の外までも断層は続き、冒頭で紹介した民家まで続いている。

 野島断層保存館の最南端では、地面を掘り下げたトレンチ展示が行われていて、地下に下りて断層の断面を見ることが出来る。

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野島断層のトレンチ展示

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 写真のとおり、野島断層の海側(左側)と山側(右側)では、地質が全く違うことが分かる。山側は、粘土層である。粘土層は柔らかいので、野島断層保存館の外の断層のずれは、震災後風化して分からなくなってしまった。

 この館だけが、阪神・淡路大震災における野島断層のずれを明瞭に保存している。

 さて、野島断層保存館から出ると、目の前に鉄筋コンクリート製の壁が聳えている。  

 昭和2年(1927年)ころに、神戸市長田区若松市場の延焼防止壁として建設されたもので、通称「神戸の壁」と呼ばれるものである。

 神戸の壁は、神戸大空襲、阪神・淡路大震災の火災と揺れに耐えて残った。

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神戸の壁

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 建設当初は、壁に開いた通路に鉄製の扉が備わっていたらしい。

 神戸大空襲で若松市場は全焼した。壁の両側に焼夷弾が落ちて、両方焼けてしまったのだろう。

 戦後、焼け残った神戸の壁は、取り壊されずに復興のシンボルとして残された。

 戦争が終わって、壁の両側に再び民家が建ったが、阪神・淡路大震災で発生した火災でまたもや焼けてしまった。

 震災後、神戸市長田区の延焼地帯は再開発されることになった。震災の生き証人である神戸の壁の保存運動が起こり、平成11年に壁は淡路の旧津名町に移され、保存されることになった。

 壁はその後、現在地に移設され、野島断層と共に震災を語り継ぐものとして展示されている。

 ずれた断層を見ると、自然災害の前では人間の築いた文明など脆いものであることが実感できる。

 しかし逆に考えると、我々を苦しめた断層のずれを、敢えて保存して後世の人々への戒めにしようとする人間の逞しさも感じる。

 苦しさに押しつぶされそうになる時もあるが、人類全体の視点で見ると、何があっても人間は逞しく生きていく他ないのだろう。

北淡震災記念公園 前編

 貴船神社遺跡から県道を南下する。

 車で走って気づいたのは、播磨灘を見下ろす道沿いに、洒落たレストランやカフェが多数あることである。

 この前新聞記事で読んだが、平成26年明石海峡大橋の通行料金が下がったことで、多くの人が淡路島を訪れるようになったという。

 最近では、パソナグループのように、企業がオフィスを淡路島に移す動きもある。

 淡路島の魅力が世に広まりつつあるように感じる。

 淡路島の面白いところは、島時間を味わうことが出来る一方で、島にある程度の広さがあり、都市機能も充実しているところである。

 例えば四国ぐらい大きいと、島で過ごしているという実感は持ちにくい。淡路は大きな島ではあるが、そこで過ごせば、島にいる気分を味わうことが出来る。

 また、程よい広さがあるので、飲食店や各種店舗も豊富にあって、都市機能も備わっており、生活も不便ではない。淡路はかつて御食つ国であったが、新鮮な魚介類や野菜、淡路牛などの食材にも恵まれている。

 また阪神地域と高速道路で結びついていて、大都市にも出掛けやすい。

 働き方改革やテレワークの時代、今後淡路島がますます注目されるようになるのではないかと思う。

 さて、今日紹介するのは、淡路市小倉にある北淡震災記念公園である。

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北淡震災記念公園

 平成7年1月17日午前5時46分に発生した、阪神・淡路大震災震源地は、明石海峡の地底だった。

 震源に近い野島断層が動いたことで地震が起きたが、旧北淡町地区では、約10キロメートルに渡って断層のズレが地表に現れた。

 淡路市小倉に現れた野島断層のズレを、そのまま屋根で覆って保存したのが、野島断層保存館である。野島断層保存館を中心にして、北淡震災記念公園が整備された。

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北淡震災記念公園案内図

 阪神・淡路大震災は、日本で初めて震度7が記録された大地震で、死者6434名、行方不明者3名、負傷者43,792名を数えた。東日本大震災が発生するまで、戦後で最も被害が出た地震であった。

 私は阪神・淡路大震災が発生したとき21歳であり、兵庫県外にいたので、凄まじい揺れは体験しなかった。

 震災発生後の平成7年3月に、JRの新快速で西播磨から大阪に行ったが、車窓から外を眺めていると、明石の辺りから急に屋根にブルーシートを被せた民家が目立ち始めた。

 電車の窓から外を眺めていた乗客皆が、その情景を見て、「ああ」と嘆息をするような様子だったことを思い出す。

 その震災ももう26年前のことで、発生から四半世紀が経った。もはや歴史の中の出来事になりつつあるが、日本の防災のあり方を変えた地震であり、その教訓は現代にも生かされている。

 ところで北淡震災記念公園の桜も美しかった。また今年も桜を見ることが出来た。

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北淡震災記念公園の桜

 公園の一角には、震災で亡くなった旧北淡町民の慰霊碑と、鎮魂のためのモニュメントである「べっちゃないロック」がある。 

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阪神淡路大震災犠牲者慰霊碑

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べっちゃないロック

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 播州の方言で、「別条ない(大丈夫)」ということを、「べっちょない」と言うが、北淡地域では、「べっちゃない」というのか。震災に負けない気持ちを現わしているのだろう。

 野島断層は、現在ズレが地表に露出した約185メートルが国指定天然記念物となっている。野島断層保存館では、その内約140メートルを屋根で覆って保存している。

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野島断層保存館

 上の写真のように、野島断層保存館は、長大な建物である。

 野島断層保存館には、保存された断層だけでなく、阪神・淡路大震災の被災状況を写した写真や、その他様々な震災に関する資料が展示されている。

 建物に入ってすぐ目に飛び込んでくるのは、震災で倒壊した阪神高速道路と横転したトラックを再現した巨大ジオラマである。

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倒壊した阪神高速道路ジオラマ

 また、震災の被害状況を写した写真は、この地震の被害の甚大さを伝えてくれる。

 阪神・淡路大震災では、古い木造建築の民家が多く倒壊した。筋交いの少ない古い民家は、震度7の揺れに耐えられなかった。

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北淡町富島地区

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北淡町富島地区の被災状況

 屋根瓦の重みに耐えられなくなった古い木造民家は、全壊していった。

 神戸市長田区を中心に、倒壊した木造民家から火災が発生し、広範囲が焼けてしまった。

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炎上する神戸市兵庫区

 当時テレビに映った神戸市街の火災の様子は、衝撃的な光景だった。

 また、震度7を想定せずに建てられた高速道路や鉄道の高架は倒壊し、都市機能はマヒした。

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倒壊した阪神電車の高架

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倒壊した阪急伊丹駅

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倒壊した阪神高速道路

 道路と鉄道が寸断され、救助車両が現場に来るのも難航したことだろう。

 阪神・淡路大震災発生前に建てられたビルは、今ほどの耐震設計がされていなかった。

 ビルの間の階が丸ごと潰れてしまったというケースが続出した。

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5階が崩れた神戸市立西市民病院

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倒れてフラワーロードを塞いだビル

 震災の発生日のテレビ映像で驚いたのは、ビルが根本から倒れて、三ノ宮駅前のフラワーロードを塞いでいる様子であった。

 震災後しばらくしてから神戸を訪れると、あちこちの電信柱やビルが傾いていて、どれが本来の垂直方向に立っている建物なのか分からなくなったのを覚えている。

 阪神・淡路大震災後、日本全国の古い校舎やビルなどが、耐震補強工事を受けた。

 また、震災では史跡も打撃を受けた。神戸市を象徴する生田神社の拝殿も倒壊した。

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倒壊した生田神社拝殿

 写真を見ると、生田神社の本殿は倒れなかったようだ。震災の中、凛として建つ本殿の姿が頼もしい。

 昭和23年に発生した福井地震までは、気象庁の定めた震度階級は0から6までだった。甚大な被害が出た福井地震を受け、震度6では地震による被害を適切に表現できないとの意見が出て、家屋の倒壊が30%に及び、山崩れ、地割れ、断層が生じる揺れを震度7とした。

 阪神・淡路大震災は、初めて震度7が適用された地震である。震度7が適用された地域を赤色で図示したパネルがあったが、北淡地域、神戸市から西宮市までを帯状に覆っている。

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震度7の揺れが襲った地域

 これだけ広範囲のエリアで、建物の30%が倒壊したのだから、恐るべき災害である。

 残念ながら、このような災害が再び日本のどこかを襲う可能性は高い。

 首都直下地震南海トラフ地震への備えを促す広報は、常になされている。

    日本では、世界の地震の10分の1が発生していると言われている。近年地震以外の災害も多発傾向にある。日本列島に住む以上、災害のことは常に頭の片隅に置いておくべきであると思う。

貴船神社遺跡

 本日、昨年末以来となる淡路の史跡巡りを行った。

 神戸淡路鳴門自動車道の淡路インターで下りて最初の交差点の南西角は、小高い丘になっている。丘の上は淡路SAで、観覧車が建っている。

 実はこの丘周辺は、旧石器時代のナイフ形石器が発掘された、まるやま遺跡のあった場所である。

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まるやま遺跡のあった場所

 私は今まで、淡路島は昔も今も人口密度が低く、文化的にも畿内より少し遅れていたのではないかと漠然と思っていたが、今回淡路の史跡巡りを通して、淡路が遺跡の宝庫で、むしろ古代の先進地域だったのではないかという感を深くした。

 この交差点を右折西進し、淡路島の西岸に向かう。目的地は、淡路市野島平林にある貴船神社遺跡である。

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貴船神社遺跡の航空写真

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貴船神社と手前の遺跡公園

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古代の製塩作業を再現したブロンズ像

 貴船神社遺跡は、弥生時代から奈良時代まで製塩が行われた集落の跡である。

 人間が生きていくに当って、塩分は絶対必要なもので、塩分を取らなければ人間は死んでしまう。現代人は、簡単に塩を摂取することが出来るので、普段塩の有難さをあまり感じないが、昔は塩を作るのも手に入れるのも一苦労だった。

 上杉謙信が、領地に海を持たない宿敵武田信玄に塩を送ったという逸事だけでも理解することができる。

 海に囲まれた日本人は、海水を蒸発させて塩を作った。江戸時代には、塩田を作って塩を生産したが、古代の塩の生産はどうしていたのだろう。

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古代の塩の生産工程

 説明板によると、まず海藻を採って天日干しにし、干した海藻に海水をかけて蒸発させ、海藻に着いた塩を海水で更に洗い落とし、濃い塩水を作ったようだ。

 また、焼いた海藻に海水をかけて濃い塩水を作ったという説もある。

 そうして出来た濃い塩水を、製塩用の土器に入れて、煮詰めて水分を蒸発させて塩を取り出したらしい。

 気の遠くなるような地道な作業である。

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古代の製塩作業の想像図

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海藻を集めて海水をかけ、濃い塩水を作る

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濃い塩水を集める

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塩土器に濃い塩水を入れて煮詰める

 遺跡公園では、当時の製塩作業を再現したブロンズ像が展示されている。なかなかリアルで、本当にそこで人間が作業している気配を感じるほどだった。

 最後の製塩土器で塩水を煮詰める作業は、古墳時代中頃から石敷きの炉の上でされるようになった。貴船神社遺跡は、兵庫県下で初めて製塩用の石敷炉が発掘された遺跡である。

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発掘された石敷炉

 土の上で煮詰めるより、下に石を敷いた方が、熱を反射して温度が上がることを古代人は知っていたのだろう。

 製塩用の土器は、最初のころは下に脚台を付けて、砂に脚台を刺して土器を立て、その周囲を燃料の木で囲み、火をつけて煮た。

 後に訪問した北淡歴史民俗資料館には、引野遺跡で発掘された脚台付きの製塩土器が展示してあった。

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塩土

 貴船神社遺跡では、5~6世紀に技術革新が起こり、石敷炉の上で煮るようになった。石敷炉の上に、底部を薄くして、熱が伝わりやすくなるよう工夫した製塩土器を置いて煮るようになった。

 貴船神社遺跡では、淡路島内だけでなく、畿内大和王権を支えるための塩が大量生産され、船で運ばれていたらしい。

 ブロンズ像で再現されているのは、古墳時代中期以降の石敷炉を用いた製塩作業だろう。

 また、竪穴住居のブロンズ像もある。住居の中で、家の刀自(とじ。奥さんのこと)が竈を使って調理をしている。

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古墳時代の竪穴住居

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竈で作業する刀自

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竈の煙出し

 竪穴住居が方形になり、竈が付くようになったのは、古墳時代からである。この竪穴住居は、古墳時代のものである。

 また、貴船神社遺跡に住んだ人たちは、蛸壷漁を生業としていたようだ。この遺跡からは、蛸壷漁に使われていた古代の蛸壷が発掘されている。

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コップ型の蛸壷

 蛸壷の上の穴に紐を通し、海底に沈めて、壷の中にイイダコが入ったら、紐を引っ張って引き上げたのだろう。

 淡路島北西部のこの地域を野島というが、ここに住んで蛸壷漁や製塩を生業にしていた海人を野島海人と呼ぶ。

 潮流の早い明石海峡で、巧みに操船しながら漁をしていた野島海人は、大和王権に船の漕ぎ手として重宝され、水軍の漕ぎ手としても活躍したらしい。

 「古事記」「日本書紀」にも、淡路島の海人のことが度々出てくるそうだ。

 また「万葉集」にも淡路の海人のことが歌われている。遺跡公園には、野島海人の娘子(おとめ)をイメージした野島海人の像が建っている。

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野島海人の像

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 山部赤人は、「万葉集」巻六の第933、934の歌で野島の海人を歌っている。第934の短歌では、

朝なぎに 楫の音聞こゆ 御食つ国 野島の海人の 舟にしあるらし 

  御食つ国(みけつくに)とは、天皇に食料を献上する国のことである。当時の食卓では、魚介類が最も贅沢なものであったことだろう。畿内に近くて魚介が豊富だった淡路は、御食つ国として最適だったのだろう。

 また、「万葉集」巻六第935の歌では、笠朝臣金村が、淡路の海人を長歌で歌っているが、その中に「(略)朝なぎに 玉藻(たまも)刈りつつ 夕なぎに 藻塩(もしお)焼きつつ 海人娘子(あまおとめ) ありとは聞けど(略)」とある。

 海人の女子が、朝方に海藻を取り、夕方に海藻を焼いて塩を取っているという意味だ。

 写真の野島海人の像は、立っている方は海藻を背負い、座っている方は製塩土器を手にしている。笠朝臣金村の歌を基にこの像を作ったのだろう。

 さて、貴船神社遺跡と言うからには、遺跡の側には貴船神社があるが、この神社は元々寄神様(よりがみさま)と呼ばれていた。

 10月を別名神無月と言うが、日本中の神様が出雲大社に出張して神様がいなくなるのでこの名称がある。逆に出雲では10月を神有月と言う。

 各国の神様達は、神無月に出雲に向かう前に、自国の寄神神社に集合してから出発した。出雲からの帰りも、神々は自国の寄神神社に寄ってから解散した。

 昔は、日本各国に、寄神神社が一つあったそうだ。大体その国の中で出雲に近い場所に寄神神社は造られた。淡路では、島で最も出雲寄りのこの地に寄神様が祀られた。

 淡路の寄神神社は、宝永二年(1706年)に、京都鞍馬山貴船神社を勧請し、貴船神社と呼ばれるようになった。

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貴船神社

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 出雲に出発する前に、国の神様が寄神神社に集合するという話は、今回史跡巡りをして初めて知った。なかなか面白い話である。

 貴船神社の境内には桜があったが、六分咲きといったところだった。

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貴船神社の桜

 温暖化のせいか、年々桜の開花が早くなっている気がする。

 今回の淡路の史跡巡りは、桜を愛でる旅でもあった。

 そして、遺跡の前には、古代と変わらぬ播磨灘が広がっていた。

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播磨灘

 昔、山部赤人は、ここで目を覚まし、野島海人の操る楫の音を聞いたのだろうか。