育波堂の前遺跡から山側に車を走らせる。
標高約200メートル付近にあった高地性集落の遺跡、五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡を訪れた。地名で言えば、ここは淡路市黒谷になる。
五斗長垣内遺跡は、弥生時代後期に栄えた集落の跡である。この集落では、畿内に先駆けて鉄器の生産が行われていた。
当時の鉄器は、まだまだ貴重な製品で、朝鮮半島からの輸入品と、国内で少量生産された製品が流通していたに過ぎない。
鉄器は、当時のハイテク製品なのだが、それがなぜ畿内より先にこの淡路で生産されていたのか、謎である。
淡路の海人の先進性の謎を、これからの史跡巡りで解き明かせるだろうか。
五斗長垣内遺跡の活用拠点施設には、鉄器生産に関する資料が展示されている。
写真の図が、五斗長垣内の集落で行われていた鍛冶作業の想像図だが、ご覧の通り製鉄は床上で行われていたようだ。地面に直接炭を置き、火を着けて鍛冶炉にした。
革袋に溜めた空気を、蓮の茎で出来た送風管を用いて鍛冶炉に送り込んだ。鍛冶炉の温度は1000度を超えたようだ。
熱した炉の上で砂鉄を溶かし、鉄の塊を作った。出来た鉄の塊を、台石の上にのせ、石製のハンマーで叩いて形を整えていった。
最後は砥石で研いで、武器や農機具にした。
鉄器が普及するまでは、田畑を耕す鋤や鍬は石製か木製で、雑草を刈り取る鎌も石器であった。これでは作業能率が悪い。鉄製の農機具が普及して、農業の生産性は大幅に上がっただろう。
また、武器としても、鉄器は、石器や青銅器より圧倒的に強靭で威力がある。
弥生時代後期は、「魏志倭人伝」に言うところの「倭国大乱」の時代だが、鉄器による強力な武器の登場が、大乱の背景にあるのではないか。
五斗長垣内遺跡が生産した鉄製の武器が、互いに争いあう当時の国家に流通していたと思われる。
また、淡路は銅鐸がよく出土する地域である。
銅鐸は、農耕祭儀に使用された道具と見なされているが、淡路で発掘された松帆銅鐸は、銅鐸を鳴らす舌もセットで発掘されている。銅鐸文化圏は、畿内一円に広まっていたが、ある時を境に銅鐸は打ち捨てられた。
さて、五斗長垣内遺跡は、国指定史跡である。竪穴住居跡が発掘された一帯は、芝生が貼られ、復元された竪穴住居が何棟か建っている。
よく整備された広大な高台に建つ竪穴式の建物群を眺めると、本当に弥生時代後期の集落にやってきた気分になる。
その中には、「ごっさ鉄器工房」という、弥生時代後期の鍛冶作業を体験できる建物がある。
通常の竪穴住居は、建物の中心近くに柱が立っていたりするのだが、鉄器を生産していた竪穴式建物は、建物の中心近くで火気を使うためか、柱が壁近くにあって、建物中心が広くなっており、屋根が高くなっている。
ごっさ鉄器工房の床に赤茶けたところがあったが、鍛冶体験では、ここに鍛冶炉を作って鉄を溶かしているのだろう。
平成20年には、弥生時代後期の大型鍛冶工房建物の跡が発掘されたが、その発掘跡の上に、大型鍛冶工房建物が復元されている。
発掘された鍛冶工房建物跡は、建物の中心に円形の穴が掘られ、その周辺に土が赤く変色し、固くなった炉跡があったという。また建物の中から、弥生土器が多数見つかった。
やはり、鍛冶工房は柱が壁寄りにあり、床を広く使うことが出来るようになっている。
このような建物の中で、額に汗を流しながら、多くの人が鉄器の生産に従事したのだろう。
遺跡には、鍛冶工房建物だけでなく、小さな竪穴住居も復元されている。
汗だくで鉄器を生産した人々も、夜はこんなささやかな住居に帰って休んだことだろう。
弥生時代後期は、後の大和王権につながる国家連合が形成される前段階にあった時代である。
神話ではなく、具体的な人間の歴史としてこの時代の日本のことを書いた文書は、「魏志倭人伝」くらいしかなく、真相は闇の中だが、五斗長垣内遺跡を見て、倭国大乱の時代の雰囲気を少しイメージすることが出来た。