敏馬神社

 8月15日に西宮に墓参りに行った。

 その帰りに、神戸市灘区岩屋中町4丁目にある敏馬(みぬめ)神社を訪れた。

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敏馬神社鳥居

 敏馬神社は、神戸市の副都心と呼ばれるHAT神戸の北側にある。

 敏馬神社の南側には、国道2号線が通っているが、昭和の初めまでこの辺りには海が迫り、社頭には砂浜が広がっていた。

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敏馬神社の南側を通る国道2号線

 敏馬神社の創建は、神功皇后の時代である。

 神功皇后が、今の尼崎市の阪急神崎川駅近くにあたる神前(かんざき)松原で、朝鮮征伐を前にして神集いを行ったところ、能勢の美奴売(みぬめ)山(今の三草山)の神が現れ、「我が山の杉の木で船を作って行くならば幸いあるだろう」と告げた。

 お告げ通り、美奴売山の杉で船を作って出征したところ、戦勝を収めた。

 帰路、船がこの地で止まったので、占ったところ、「美奴売山の神の意思である」と出たので、ここに美奴売の神を祀り、船も献上した。

 平安時代初期に成立した、「延喜式神名帳には、汶売(みぬめ)社という名で出てくる。

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敏馬神社の高台

 敏馬神社の社殿の建つ場所は、高台になっている。古代には、この高台は、海に突き出た敏馬崎という岬で、東側には船泊に適した敏馬泊という港があった。

 古代に大和の人が九州に向かうときは、生駒山地を越えて大坂に出て、そこから船で出港し、まず敏馬泊で一泊した。

 敏馬泊は、船旅で大和の人が生駒山地を望める最後の湊で、帰還の際は生駒山地を最初に望める港であった。

 万葉歌人もこの敏馬を歌った。境内には、柿本人麻呂田辺福麻呂(さきまろ)の歌碑がある。

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柿本人麻呂の歌碑

 人麻呂の歌碑には、

たまもかる 敏馬を過ぎて なつくさの 野島のさきに 舟ちかづきぬ

という歌が刻まれている。

 たまもかる(玉藻刈る)は、藻を刈るという海辺の情景を歌ったもので、海辺の地名の敏馬にかかる枕詞である。

 なつくさの(夏草の)は、夏草が生い茂る状況から、野にかかる枕詞である。

 野島は、淡路の地名で、今の淡路の北端付近は野島と呼ばれていた。

 枕詞ー地名、枕詞ー地名という畳みかけで、舟が移動して情景が変わる様子を表現している。言葉のしらべもいい。名歌だ。

 田辺福麻呂の歌碑には、「万葉集」巻六に載せられた長歌反歌を刻んでいる。

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田辺福麻呂の歌碑

 こちらの歌は長いので、説明は割愛するが、簡単に書くと、「神々の代から百千の船が泊まる湊だった敏馬の浦は、清い白砂が続く。いくら見ても飽きがこないこの美しい浜を語り継ぎ、遠い将来までも偲んでいこう」という歌意の歌である。

 奈良時代後期には、航海技術の向上により、湊は大輪田泊に移るが、白砂青松が続く敏馬浦は都人士に知られ、多くの歌人が訪れ、歌にした。

 寛政年間の「摂津名所図会」には、敏馬神社が載っているが、その図を見ると、確かに白砂青松の海岸が神社の前に広がっている。

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寛政年間の敏馬神社

 江戸時代には、神社前には西国街道が通じて往来繁く、氏子の住む大石村、味泥村、岩屋村では酒造業が盛んになり、その酒を江戸に運ぶ廻船業も栄えた。

 明治大正年間には、社前に海水浴場、ボートハウス、お茶屋、料亭、芝居小屋などがあって、大変な賑わいだったという。

 しかし、昭和6年に阪神電車のトンネルを造った際に出た土で海岸を埋め立て、かつての面影はなくなった。

 今は僅かに敏馬神社の境内の杜が往時を偲ぶよすがとなっている。

 境内には、朱色が鮮やかな稲荷社や、神功皇后を祀る后の宮がある。

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稲荷社

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お狐さん

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后の宮

 后の宮の向かって右側には、「神功皇后祠」と刻まれた石碑がある。

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神功皇后祠の石碑

 神功皇后祠という字が、独特の書体で刻まれている。この石碑は、昭和13年に神社西北の民家から発掘されたものである。室町時代の石碑だとされている。

 また、后の宮の向かって左にある石灯篭は、寛文十三年(1673年)奉納の銘がある。敏馬神社に現存する最古の石灯篭である。

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寛文十三年奉納の石灯篭

 寛政六年(1794年)に再建された敏馬神社の先代の社殿は、昭和20年6月5日の神戸大空襲で焼失してしまった。

 現在の社殿は、昭和27年、昭和33年に再建されたものである。

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拝殿

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本殿

 敏馬神社の今の祭神は、素戔嗚尊、天照皇(あまてらすすめ)大神、熊野座(くまのにます)大神である。美奴売の神は祭神の中にはいない。

 現在の社殿は、平成7年の阪神・淡路大震災で倒壊したが、その後復元された。

 建物は何度も再建されているが、1600年以上前の神功皇后の時代に建てられた神社が現代に残っている。

 都会の喧騒の中に、古い信仰を伝えるものがひっそり残っている。当時のもので現代に残っているのは、古墳やこうした古社だけである。

 どうやら人は、人が祈りを捧げたものを残そうと努力するようだ。