盛林寺の境内に、三界唯一心塔婆という塔婆がある。
この塔婆は、上部に蓮華座上の円相を刻み、下部中央に大きく三界唯一心と刻み、その左右に13名の僧衆の名を刻んでいる。
この僧衆は、開山趙室宗栢和尚の学徳を慕って盛林寺に参学した近隣の寺僧、社僧、修験の名である。
三界唯一心は、「華厳経」の中に出て来る言葉である。世界の全てが心の現れとする思想で、禅宗にも影響を与えた考え方である。
この塔婆は、盛林寺が以前あった寺谷に倒れ伏したままになっていて、古くから祟り石と呼ばれていた。
ところが調査の結果、趙室宗栢和尚が建立した碑であることが分かり、寺の境内に移されたという。
本堂の北側から、本堂裏の墓地に登っていく道が始まっている。
墓地の手前には、古墓が並んでいる。
天正八年(1580年)に細川藤孝は宮津城に入城し、丹後の国主となった。
信長の命により丹波を制圧した明智光秀は、娘のお玉を藤孝の嫡子の細川忠興に娶せた。お玉は切支丹であり、後世、細川ガラシャ夫人と呼ばれた。
天正十年(1582年)六月二日、京都本能寺で信長を倒した光秀は、細川忠興にも自分に味方するよう書状を出した。
しかし忠興は光秀に同調せず、お玉を味土野(みどの)に幽閉し、自らは髻を切って謹慎の意を表した。
同年六月十三日、光秀は山崎の合戦で秀吉に敗れ、近江坂本城に退去する途中、小栗栖(おぐるす)で土民のために殺された。
秀吉は、光秀の遺体を粟田口で磔にし、本能寺跡にて首を梟した。
その後、光秀の首がお玉の下に届けられ、ここに葬られたという伝説がある。それが、この首塚だという。
光秀の首塚とされる場所は他にもある。複数の首塚伝説が生じたということは、人々がそれだけ光秀の無念の死に感心があったことを表している。
首塚の前には、苔が一面に生え、紅葉した楓が立つ庭園があった。
そこからは、本堂裏の池泉式庭園を見下ろすことが出来る。
光秀の首塚が側にあるとは思えぬ静けさだ。
光秀の首塚の隣には、丹後守護一色氏累代の供養塔がある。
又、盛林寺境内には、一色氏の供養碑もある。
正面には、一色氏累代の事績を刻み、側面には供養碑を建立した一色氏の子孫の名が刻まれている。
盛林寺は、元は一色氏とその重臣小倉氏と縁の深い寺である。
武家としての一色氏と小倉氏は滅亡したが、その歴史の一端は、この寺に消えずに今も残っている。