北ノ御門跡から鳥取城跡の敷地に入る。先ずは山下(さんげ)ノ丸と呼ばれる、江戸時代に鳥取藩によって整備された、久松山麓の城跡を散策する。

山下ノ丸の配置を書くと、一番奥に天球丸跡があり、その手前に二ノ丸跡、その手前に現在鳥取西高等学校の敷地になっている三ノ丸跡、右膳ノ丸跡、仁風閣が建つ扇御殿跡がある。
山下ノ丸を整備したのは、慶長七年(1602年)に因幡鳥取藩主となった池田長吉である。二ノ丸、三ノ丸を築き、城の大手として擬宝珠橋と中ノ御門を築いた。
城の大手である中ノ御門と渡櫓は現在は再建工事中である。

中ノ御門から城内に入って真っ直ぐ歩くと太鼓御門跡がある。
太鼓御門までの道は、鍵型に曲折して、攻めにくくなっている。

太鼓御門は、中ノ御門を潜った藩士が、坂を上った後に次に潜った門である。
太鼓御門を潜ると、三ノ丸に入ることが出来る。

太鼓御門は、左右の石垣に掛け渡した桁行十二間(約22メートル)、梁行二間半(約4.5メートル)の堂々たる櫓門であった。
太鼓御門の渡櫓に時を知らせる太鼓が備え付けられていたことから、この名がある。

太鼓御門を潜ると三ノ丸があった。
江戸時代前期には、現二ノ丸が城の中心の本丸と呼ばれ、現三ノ丸が二ノ丸と呼ばれていた。
三代藩主池田泰吉が享保元年(1716年)に三ノ丸に御殿を築いて以来、三ノ丸が城の中心となった。


太鼓御門跡の北側の石垣からは、久松山麓の天球丸と二ノ丸の南半分が眺められる。

山下ノ丸の石垣群を最もよく眺めることが出来るのは、扇屋敷跡の宝隆院庭園と仁風閣の敷地からであろう。


二ノ丸跡の石垣の中で、最も高い石垣の上に、かつて鳥取城を象徴する三階櫓が建っていた。


池田長吉が山下ノ丸の整備をした後、元和三年(1617年)に入城した池田光政は、城を更に拡張整備し、鳥取藩32万石に相応しい規模にした。
その際に二ノ丸に三階櫓が建てられた。
元禄五年(1693年)に焼け落ちるまで、久松山上の山上ノ丸には天守があった。
天守が焼けた後は、この三階櫓が天守に代わる鳥取城の象徴として威容を誇った。

令和18年には、三階櫓も木造で再建されている予定である。幕末の鳥取城の威容が、再び地上に再現される日が来るのである。
さて、北ノ御門跡に戻りまっすぐ進むと、右膳ノ丸跡の石垣に突き当たる。


突き当りを右に行くと、昭和に再建された中仕切門がある。


中仕切門を潜って、私は石垣群の中に足を踏み入れた。