芦屋市の史跡巡りを終え、東隣の西宮市に入った。
西宮を代表するお社である西宮神社を訪れた。西宮市社家町にある。
西宮神社の創建については、詳しいことは分かっていない。
平安時代末期に高倉上皇が幣帛を奉ったという記録が残されている。
祭神は、西宮大神(えびす大神)である。国生み神話で言うと、伊邪那岐命と伊邪那美命が、国土に先駆けて最初に生んだ蛭子(ひるこ)神のことを指す。
伊邪那岐命と伊邪那美命は、蛭子神が不具であったことから、海に流した。
社伝では、蛭子神が和田岬沖に現れ、遭遇した鳴尾の漁師が鳴尾浜に祀ったが、西に宮地があるとの託宣により、この地に祀られたという。
蛭子神の説話には、少し不吉な影があるが、この蛭子神が、時代と共に福を齎すえびす神、通称「えべっさん」になった。
釣竿と鯛を持った、福々しいあのえべっさんである。大漁をもたらす神様として、漁師に尊崇されるようになった。
西宮神社は、蛭子神が最初に祀られた場所として、日本のえびす神の総本宮となっている。
西宮神社の第一の特徴として挙げなければならないのは、国指定重要文化財となっている大練塀である。
西宮神社の社地は、築地塀によって囲まれているが、その内東面と南面を覆う総延長247メートルの練塀は、版築という技法で練り固めた、長さ4メートルの築地米を63ヶ塀連ねたものである。
大練塀の建築年代は、はっきりとは分かっていない。
大東亜戦争で損傷した箇所を、戦後になって修復したところ、大練塀から中国の宋銭や明銭が出てきた。
日本が宋や明と交易していた室町時代初期に建てられたものと推測される。
そうとすれば、現存する日本最古の築地塀である。
大練塀に近づいて触れて見ると、土で出来ているのに、セメントのように強固である。
この強固さが、今まで残った理由だろう。
西宮神社の大練塀は、尾張熱田神宮の信長塀や、京都蓮華王院(三十三間堂)の太閤塀と共に、日本三大練塀に数えられているが、その規模の大きさ、堅牢さにおいて他に類のない日本一の大練塀である。
だがそんな堅牢な大練塀も、平成7年の阪神淡路大震災で東面が被災し、古来の版築技法で修復された。
社地東側にある表大門から北側の大練塀は、ところどころ色違いの部分がある。
これが修復された箇所だろう。
西宮神社の東側には、国指定重要文化財の表大門がある。朱塗りの大門である。
国道43号線に面する南側の南門が、西宮神社の表の顔のように思えるが、旧西国街道に面して建つこの表大門が、西宮神社の顔である。
慶長九年(1604年)に豊臣秀頼の寄進により建てられた切妻造本瓦葺の四脚門である。
当時の徳川幕府は、大坂に残る豊臣家の財力を削ぐため、秀頼を唆して、あちこちの寺社の建物を再建させた。
西日本の著名な寺社には、豊臣秀頼が寄進した建物が数多く残っている。
秀頼の名が、このような形で残っていることに、どことなく哀れさを感じる。
桃山時代風の、豪壮な作りの門である。
ところで、この表大門で有名なのは、毎年1月10日午前6時に行われる、開門神事である。
開門と同時に境内に入って、拝殿前に一番に到着したものがその年の福男に選ばれるという神事である。
福の神のえびす大神を祀る西宮神社に相応しい神事である。
現在の西宮市は、兵庫県を代表する都市の一つだが、元々は西宮神社の門前町から発展した町である。
西宮市の発展そのものが、えべっさんのお陰とも言える。