鳥取市寺町は、寺院が建ち並ぶエリアである。
昨日紹介した妙要寺の北隣には、浄土宗の寺院、撰択(せんちゃく)山本願寺がある。
本願寺の開基は天正九年(1581年)で、安土桃山時代の鳥取城主、宮部継潤が創建した。開山は幻身上人である。
本願寺の寺宝として伝わるのが、国指定重要文化財の竜宮の鐘である。
平安時代前期の鋳造で、天正年間に古海の浪人和田五郎右衛門範元が白兎海岸から運んだという。
境内の鐘楼に掛かる梵鐘は、竜宮の鐘ではなく、近年鋳られたものである。
竜宮の鐘は、鳥取市歴史博物館に寄託されている。令和5年9月18日の「鳥取市歴史博物館 後編」の記事で紹介した。
なぜ平安時代前期の鐘が、白兎海岸にあって、天正年間に創建された本願寺に納められたのかは分からない。
本堂に祀られる本尊は、天正九年(1581年)に丹後久美浜の本願寺から納入された阿弥陀如来立像で、鎌倉時代初期の名品だという。
汗かき本尊とも言われている。
本堂の正面には、延命地蔵尊が祀られている。
延命地蔵尊は、元禄十二年(1699年)十月に入仏した。
私は辻に佇むお地蔵さんの前を通過する際には、なるべく心の中で礼をするようにしている。
地蔵の石仏は、庶民にとって特に親しみを感じる仏さんである。全てを受け入れて、見守ってくれている気がする。
本願寺境内の西側は、広大な墓地である。その中に、義賊と呼ばれた桜田作一郎の墓がある。
桜田作一郎は、備後出身で、郷里で犯罪を重ねて二度投獄された。
明治12年頃に因幡に入り、窃盗を重ねたが、時に盗んだ金品を生活に困窮する者に配ったことから、義賊と呼ばれた。
最期は警官を殺害した罪で、明治16年に鳥取城内で絞首刑になった。
その亡骸は解剖されたが、これが鳥取県下死体解剖第一号という記録が残っているらしい。
また、本堂裏に非公開の庭があるが、その中に智頭往来の大曲という場所に架かっていた石橋の一部が残っている。
庭内に横に倒れた石材が見えた。これがその石橋の一部であろう。
覚応寺は、江戸時代から鳥取城下にあるが、鳥取城下唯一の東本願寺(真宗大谷派)の末寺である。
蟇股の寺紋の彫刻を見ると、池田家の紋章の揚羽蝶であった。
池田家とゆかりの深い寺院なのであろう。
城下町には、江戸時代に開かれた寺が建ち並ぶ一角があるものだが、鳥取市の寺町もそうである。
鳥取城下の武家屋敷や商家は、ほとんどなくなってしまっているので、かつての鳥取城下の様子を偲ぶことが出来るのは、この寺町のみと言ってよい。
町の表情の変化は、まことに著しいものがある。