久世

 旧遷喬尋常小学校の見学を終えて、西に走り、真庭市久世(くせ)の中心に至った。

 久世は、江戸時代に出雲街道と大山街道が交差する宿場町として繁栄した。

 また旭川の河岸に高瀬舟が発着する川湊が置かれ、岡山城下に物資を運び出す拠点となった。

 享保十二年(1727年)以降、津山藩の減地に伴い、久世を含む美作西部五万石は、幕府直轄地になった。

 久世には幕府の代官所が置かれた。JR久世駅から南方約200メートルの地に、久世代官所跡がある。

久世代官所

 代官所の土地には、津山藩が年貢米の積み増しのために設けていた御蔵跡地が転用された。

 美作西部が文政元年(1818年)に津山藩領に復帰するまで、久世代官所は約90年間、この地の政治の中心であった。

 久世代官所跡には、天明七年(1787年)から享和元年(1801年)まで、14年に渡り代官を務めた早川八郎左衛門正紀(まさとし)の銅像が建っている。

早川八郎左衛門正紀の銅像

 正紀は、在任中、年貢収取を定免方式から検見方式に変え、無理なく年貢を収取するようにした。

 また、住民の赤子間引きの禁止や、質素倹約の奨励、庶民の教育のための久世教諭所や典学館の建設などを行い、治績を上げた。

 正紀は、地元住民から名代官と慕われた。転任に際して、住民から幕府に留任願いが出されたという。

 久世代官所跡の北側にある浄土宗の寺院、重願寺の山門は、久世代官所の表門を転用したものである。

重願寺山門

 政庁の山門らしく、重厚感がある。

 早川八郎左衛門正紀もここを毎日出入りしたことだろう。

門の潜り戸

 ひょっとしたら、陳情に来る庄屋や農民もここを通ったかも知れない。

 山門を潜ると広大な墓地があるが、建物はない。廃寺になったようだ。

門の扉

 人間が、何に最も怒りを覚えるかと言うと、それは恐らく不公平さである。

 自分たちが不公平に扱われ、上に立つ者が公正さを欠いていれば、人は自分たちが軽く扱われているように感じる。

 人は、常日頃から他人に丁重に扱ってもらいたいと思っている。

山門の蟇股の彫刻

 軽く扱われれば、自分たちが馬鹿にされているように感じる。

 そこで人々は怒りの感情を持つのである。

 どんなに経済的に豊かになっても、自分が軽く扱われていると思うと、人間は生きていることに虚しさを覚え、怒りを感じる。

 多少貧しくても、公平に丁重に扱われれば、人はそれほど不満を感じないものである。

 早川八郎左衛門正紀は、住民を公平に丁重に扱ったのだろう。

山門の裏側

 そう考えると、安定した政治の要諦は明らかである。

 一つは為政者が特権意識を持たず、同輩として住民に接するということである。

 もう一つは、住民の意見をよく聞き、不公平な扱いをなるべく少なくすることである。

 世の中から不公平を完全に無くすことは不可能である。だが不公平をなるべくなくそうとする努力は、人々から受け入れられ易いものである。

重願寺の敷地

 これはいつの時代も変わらぬ政治の要諦である。

 これが出来ていなければ争乱が起こるし、出来ていれば安定した時代になる。

 勿論、住民の教育水準や、為政者の持つ武力や治安維持能力によっても変わってくるが、この法則は、いかなる時代、いかなる地域にも当てはまるだろう。

 人間は、自分を一人前の人間と他人に認めてもらうことに、一生かけて苦闘する存在なのである。