久世から西に行き、JR中国勝山駅に隣接する観光駐車場に車をとめる。
駅前から西に続く新町商店街を歩く。

新町商店街を何気なく歩いていると、旦酒店という酒屋があり、店頭に「文豪谷崎潤一郎疎開地跡」と墨書された掛軸が掛けられていた。


谷崎潤一郎は、戦火を避けるため、昭和20年5月に神戸魚崎の家から津山に疎開した。
昭和20年7月初旬に津山から勝山新町の小野はる方離れに移り、2階で疎開生活を送った。

旦酒店の建物はコンクリート壁なので、谷崎が住んだ当時の建物ではないだろう。
谷崎潤一郎の「疎開日記」を読むと、谷崎はここで永井荷風の訪問を受けたりしている。
昭和20年8月15日には、谷崎は午前11時26分勝山駅発の汽車で帰る永井荷風を駅まで見送り、帰宅した。
家に戻ると、周囲が午後0時から天皇陛下のラジオ放送があると噂しあっていたので、向かいの家にラジオ放送を聞きに行ったという。昭和天皇のお声はほとんど聞き取れなかったそうだ。


その後、町の人が、先ほどの放送は、日本が無条件降伏を受け入れたことを天皇陛下が語ったものだという警官の話を聞いてきた。谷崎や周囲の人はその話を聞いても半信半疑であった。
同日午後3時のラジオ放送で、初めて日本の降伏が明瞭になったという。空襲の情報はぱたりとなくなった。
現在と違って、当時は天皇の肉声を庶民が聞くなど、ありえない出来事であった。
天皇が直接国民に語りかけるということが、いかに国家の非常時であったか、谷崎の「疎開日記」からも感じ取ることが出来る。
さて、新町商店街を西に歩くと、古い民家や商家が並ぶ町並み保存地区との交差点に辿り着く。

町並み保存地区を北に歩き始めてすぐに、右手に秋葉橋という新しい石橋と古い石段が見えてくる。
この石段の上にあるのが、臨済宗の寺院、寂光山明徳寺である。

明徳寺は、近江永源寺の開祖寂室元光国師の生誕地に建てられた寺と言われている。
寂室元光は、正応三年(1290年)に勝山に生まれ、その後元に渡って天目山幻住庵の中峰明本から隠遁禅を学び、日本に帰ってその禅風を弘めたという。
元禄十六年(1703年)に、元光の遺徳を偲ぶ地元の人が、勝山南東の山麓に草庵を建てた。

明和元年(1764年)に三浦明次が陣屋を建てた際に、草庵は現在地に移転され、寂光山明徳寺と称するようになった。
本尊の木造聖観音坐像は、平安時代前期の作で、像高42センチメートルの一木造りである。
花冠や腕釧が丁寧に彫り出された名品で、岡山県指定文化財となっている。

即仏堂というお堂の前には、芭蕉の句碑の白菊塚がある。


この塚は、文化十一年(1814年)に、勝山出身の俳人松毬庵里翠(しょうきゅうあんりすい)が、芭蕉の「しらきくの 目にたてゝ見る 塵もなし」という句を刻んで建てたものである。
芭蕉の句碑は、芭蕉を慕った俳人たちによって、全国あちこちに建てられている。
明徳寺境内には、火防の神様、秋葉大権現と、修験道の開祖役小角こと神変大菩薩を祀った祠がある。




秋葉大権現は、遠江国秋葉山の土着の神様で、秋葉山で修業する修験者たちの山岳信仰から広まったとされている。
神変大菩薩は、修験道の開祖役小角のことである。どちらも山岳信仰と結びつきのある存在だ。

秋葉大権現の前には桜が咲いていて、熊蜂が飛び交っていた。

今年も桜を見ることが出来た。
昨年春から無事に生活できたことを、神仏に感謝した。