城崎温泉の温泉街の西端に位置するのが、真言宗の寺院、末代山温泉寺である。
大師山の山頂に奥の院があり、中腹に本堂、多宝塔、温泉寺宝物館がある。麓には薬師堂があり、薬師堂の周辺が薬師公園という名の公園になっている。薬師公園から大師山山頂までは、ロープウェーが敷設されている。
私は、ロープウェーは使わずに、歩いて山頂まで登った。
温泉寺は、真言宗の別格本山の一つである。
開山は、道智上人である。衆生済度の大願を発し、諸国を巡錫していた上人は、養老元年(717年)に城崎を訪れた。
当地鎮守の四所明神の神託により、上人が千日間の八曼荼羅の秘法を修めると、養老四年(720年)に温泉が湧き出た。
同じ頃、大和国の仏師稽文(けいもん)が、長谷寺の十一面観音像を刻んだものと同じ木から、もう一躯の観音像を造ろうとした。
だが、病のため完成を断念し、未完のまま長楽寺に安置した。
その後、疫病が流行したため、長楽寺付近の村人は、疫病は未完の観音像の祟りだとして、観音像を海中に投棄した。
未完の観音像は、但馬の円山川河口に漂着した。偶然城崎に湯治に訪れていた稽文は、未完の観音像に再会し、仏縁を感じて像を完成させた。
そして、草堂を築いて観音像を安置したが、その後は像をこの地にいた道智上人に託した。
上人は観音像を祀るため伽藍を整備した。天平十年(738年)に聖武天皇から末代山温泉寺の勅号を得た。これが、温泉寺の開山縁起である。
石畳の参道を歩くと、明和年間(1764~1772年)に再建された山門が出迎えてくれる。
第111代後西天皇の皇女、宝鏡寺宮理豊内親王の御筆による「末代山」の扁額が山門に掛かっている。
山門には、運慶、湛慶作と言われている仁王像二躯が安置されている。兵庫県指定重要文化財である。
力強い仁王像である。勇気を与えられた気がした。
ところで温泉寺は、開山以来一度も火災に遭ったことがない。これは非常に珍しいことである。
そのためか、貴重な文化財が現在も数多く残っている。
国指定重要文化財が5点、兵庫県指定重要文化財が2点、豊岡市指定文化財が8点残っている。
寺伝では、稽文仏師が制作したものと伝わる本尊木造十一面観音立像だが、実際は平安時代中期の作で、稽文仏師が造ったものではなさそうだ。
山門を潜ると、右手に延宝九年(1681年)に建立された十王堂がある。
十王は、仏教や道教で、初七日から三回忌までの10回の審理の日に、死後の人間を裁く役割を与えられた地獄の王とされている。
初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日(四十九日)、百箇日、一周忌、三回忌の10回がそれぞれ審理の日である。
審理の結果、死者はいわゆる六道輪廻の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のいずれかに赴くことになる。
10回の審理の日は、所謂法要の日だが、その日は僧侶が死者の仏前で経を唱え、親族も経を唱え死者のために祈りを捧げる。
これは、死者が六道輪廻の世界でなるべく天に近い場所に行くように、僧侶や親族が力添えをすることを意味する。
この世界が虚妄だと気づいた死者は、六道輪廻から抜け出して成仏するわけだ。
十王堂の隣には、聖天(大聖歓喜天)を祀る聖天堂がある。
聖天は、仏法の守護神で、ヒンドゥー教の神ガネーシャと同一とされている。
雌雄二体の象が抱き合う姿で表現される。性的な姿をしているため、秘仏として扱われることが多い。非常な霊力を誇る神様である。
聖天堂の奥には、温泉寺とは別の寺院になると思われるが、象頭山金毘羅寺という名の、金毘羅大権現を祀る祠があった。
金毘羅大権現も、インド由来の仏法の守護神である。
役小角が讃岐の象頭山を訪れた際、インド・ガンジス川に棲む鰐を神格化したクンビーラの神験に遇ったことから、象頭山に金毘羅大権現が祀られるようになった。
この金毘羅大権現も、讃岐から勧請されたものだろう。
温泉寺は、名前だけを見ると単なる温泉地の一寺院に過ぎないように感じられるが、古い歴史と豊富な文化財を誇る但馬有数の寺院である。
但馬の真言宗の信仰の中心となる寺院だろう。