沼島城跡

 7月28日に淡路の史跡巡りを行った。

 今回訪れたのは、淡路島の南約3キロメートル沖に浮かぶ沼島(ぬしま)である。

 今回の沼島の旅が、私の淡路史跡巡り最後の旅となった。

沼島

 沼島に渡るには、兵庫県南あわじ市灘土生にある土生港から沼島汽船に乗らなければならない。

沼島汽船灘ターミナルセンター

 沼島汽船の待合所である灘ターミナルセンターには、沼島の地図が掛けられている。

沼島の地図

 沼島は上空から見ると、勾玉のような形をしている。周囲約10キロメートル、面積2.63キロ平方メートルの小島である。

 沼島汽船は、乗ってみると意外に利用客が多い。観光のために沼島に渡る人は、案外多そうである。

沼島汽船の乗り場

沼島汽船はまちどり

 沼島汽船は、灘土生と沼島を約15分で結ぶ。波は穏やかで、スムーズに沼島に着いた。

沼島漁港

 沼島の主要産業は漁業である。住民の大半は、漁に関係していることだろう。

 沼島に到着すると、漁船が係留された漁港がすぐ見える。ここが沼島の核心と言える場所だろう。

 沼島には、古代に海人族たちが住み着いた。彼らは卓越した操船技術を持っていた。漁をする傍ら、中には海賊になった者もいた。

武島秀之が居城とした沼島城跡に建つ蓮光寺

 そんな海賊の首領が、承平・天慶年間(931~947年)に沼島に城を築いて、藤原純友の乱に参加した武島五郎秀之である。

 秀之は、天慶四年(941年)、藤原純友の配下として186人の部下を率いて九州箱崎沖の海戦に臨み、壮烈な討ち死にを遂げた。

蓮光寺山門

 現在浄土真宗本願寺派の寺院、龍珠山蓮光寺が建つ丘は、かつて武島秀之が築いた沼島城の跡である。

 時代が下って、鎌倉時代の寛喜・建長年間(1229~1256年)に、梶原景行がここを居城としたという。

山門の彫刻

 沼島には、源頼朝の腹心だった梶原景時の一族が流れ着いたという伝説がある。

 景時の墓とされる石造五輪塔も島内にある。景時が沼島に来たのは伝説にしても、御家人との対立で鎌倉を去った梶原氏の一族の一部が沼島に流れ着いたというのはありそうな話だ。

蓮光寺本堂

 更に時代が下がって暦応三年(1340年)、南朝方の四国・九州の総大将脇屋義助新田義貞の弟)が熊野水軍を率いて沼島にやってきた。

 淡路の南朝方の武将志知、安間、小笠原の各氏から沼島城に迎えられた。義助は沼島から備前児島に向かったという。

本堂の蟇股の彫刻

 天正九年(1581年)、沼島城主梶原秀景は、淡路攻略に来た秀吉に降服した。

 元和元年(1615年)に徳川幕府が出した一国一城令により、沼島城は廃城となった。600年以上の歴史に幕が下ろされた。

本堂内部

欄間の彫刻

 現在沼島城跡に建つ蓮光寺は、天明元年(1781年)に丘を一丈八尺(約5.5メートル)切り下げて建てられたものである。

 それでも沼島の集落の中では、一際高い丘の上にある。

本尊阿弥陀如来立像

 蓮光寺境内には、「武嶋城跡」と刻まれた石碑がある。

武嶋城跡の碑

 今回の記事は、大半がこの碑文に拠っている。
 寺のある丘からは、沼島の集落や、淡路本島と沼島の間の海が一望できる。

丘の上から見下ろす沼島の集落

 沼島八幡神社の境内からも、周囲より高い場所にある蓮光寺を眺めることが出来る。

沼島八幡神社から眺めた沼島城跡

 古くから漁場として発展し、中世には水軍の根拠地となった沼島の歴史には、独特のものがある。