大智寺から北上すると、畑郵便局という小さな郵便局があり、そこで道が二股に分かれる。
右側の道をしばらく行くと、福知山市夜久野町桑村の集落があり、道の左側の山の斜面に小さな薬師堂がある。
長光山薬師堂と呼ばれている。
目印は、上の写真の立て看板である。目立たないので気づかずに一度やり過ごしてしまった。
この立て看板の奥に、薬師堂が建っている。
薬師堂には、平安時代後期の11世紀に作られた木造薬師如来坐像が祀られている。
古い木造の薬師堂は、墨書により明治27年に建立されたものだと分かっている。
引き戸に手をかけてみて驚いた。開いていたのである。中に入り、仏像と対面した。
この木造薬師如来坐像がどういう由来でここに祀られているのかは知らない。少なくとも明治27年には、ここに祀られていたわけだ。
本来どこかの寺院の本尊になっていてもおかしくない。廃寺になった寺の本尊を集落で管理するようになったのだろうか。
薬師堂は、畳が抜けて雨漏りがしそうな古い建物である。そんな建物の中に、平安時代の仏像が無造作に安置されている。
こんな古い仏像を間近で拝むことができるのは有難いことだ。
目と唇は、後世に彩色されたものだが、頭部は制作当時の姿を留めているという。頭部上方で先を尖らせた螺髪や、おおぶりな耳など、平安時代初期から中期の特色を残しているそうだ。
ヒノキ材の寄木造りの仏像である。
肌は金色に、納衣(のうえ)は朱色に彩色されているが、肩から下と脚部は後世に修復されたものだそうだ。
後世の補修が多いので、福知山市指定文化財に留まっている。
金剛合掌して、薬師如来の真言、「オン コロ コロ センダリ マトウギ ソワカ」を唱えた。
薬師堂の前には、青面金剛の石仏がある。
庚申信仰は、中国の道教に由来する信仰である。庚申の日に、三尸虫という虫が、人間の体内から出て、天帝に人間の悪事を報告に行くと信じられたため、庚申の日には、虫が体内から出ないように見張るため、猿田彦大神や青面金剛を祀って、夜通しで勤行や宴会をしたという。これを庚申講という。庚申塔は、庚申講を3年18回続けて行った記念に建てられることが多かったという。
夜久野町から兵庫県豊岡市にかけては、青面金剛を象った庚申塔が数多く建てられている。
丹波修験の山であった三岳山から次第に麓に降りてきたものとされている。
この塔には、宝暦七年(1757年)と刻まれている。江戸時代中期には、庚申信仰が流行したようだ。
さて、薬師堂から約2.5キロメートル北上すると、小畑の集落に真言宗御室派の寺院、恵日山円満院がある。
ある時、聖武天皇の夢に千手観音が現れ、「丹波の富久貴峰に伽藍を建立し、我を安置せよ。さすれば鎮護国家、万民豊楽を成就せん」と告げた。
叡感があった聖武天皇は、行基菩薩に勅命して、富久貴峰に伽藍を建立させたという。これが円満院の発祥とされる。
しかしその後、保元平治の乱、源平争乱などで寺は荒廃した。
南北朝期に当地を領した南朝の忠臣荻野朝忠は、富久貴峰の観音を信仰することが篤かった。ある時、夢に観音の化身の老翁が出てきて、朝忠に伽藍の再建を頼んだ。
応永八年(1401年)に朝忠は、この地に富久貴峰の観音菩薩像を移し、伽藍を再建したという。
その後、明和六年(1769年)、明治16年(1883年)に火災で堂宇は焼失した。
今の本堂は、大正11年に再建されたものである。
円満院には、南北朝時代の絹本著色仏涅槃図、絹本著色釈迦十六善神像図、絹本著色不動明王二童子像図などの寺宝が伝わっている。
荻野朝忠が寺院を再建したときに奉納されたものだろう。
丹波は、山に囲まれた国である。このような地方の山中に、古代から中世、近世まで連続した信仰の糸が、切れずにそのまま残っていたりする。
山中や、山麓の集落を巡ると、古い時代の痕跡が数多く見つかるものだ。