木山神社 木山寺 その1

 岡山県真庭市木山にある木山神社は、標高414メートルの木山山頂に奥宮が、麓に里宮が鎮座する神社で、奥宮の隣には明治の神仏分離で分かれた別当寺の木山寺がある。

 昭和37年に、木山の麓に里宮が完成し、遷座した。それ以降、山頂の本殿は、木山神社の奥宮と呼ばれるようになった。

 郡遺跡の西側を通る南北道は、木山神社に参拝する道である。この道を北上すると、左手に石造の鳥居と灯籠が見えてくる。

木山神社の鳥居と灯籠

 この鳥居は、山頂の奥宮の方を向いている。昔はこの鳥居が建っている場所に参道が通っていたのだろう。

 木山神社の祭神は、木山牛頭天王須佐之男命)と木山善覚稲荷(稲倉魂神)であるが、奥宮の隣にある木山寺に木山牛頭天王本地仏薬師瑠璃光如来と木山善覚稲荷の本地仏の十一面観音菩薩が祀られている。

 神仏分離を経た今でも、両者はほとんど一体化した信仰の形態を留めている。当ブログでは、以降の記事で、木山神社と木山寺を、一体の信仰空間として紹介する。

 先ほど紹介した鳥居から東に行くと木山神社の里宮があり、西に行くと奥宮がある。

 先ずは里宮から先に参拝した。

木山神社里宮参道

 木山神社と木山寺を参拝して思ったが、社殿や伽藍の規模や結構からして、ここは美作では最も規模の大きな寺社であろう。

 木山神社は、美作、備前、備中三国の境にあり、山陰の伯耆、出雲からも近い。木山南麓は、落合往来や大山往来に面し、旭川の川湊にも近かったため、往時には、美作だけでなく備前、備中、備後、伯耆、出雲からの参詣客で賑わったという。

里宮の赤鳥居

 ところで、なぜ昭和37年に里宮が木山の麓に築かれたのだろうか。

 社殿が山頂にあっては、参拝客が難儀したからだろうか。確かに、奥宮や木山寺に比べれば、里宮は平地に近く参拝しやすい。

随神門

随神門の随神像

 赤鳥居の奥にある随神門には、正面左右に随神像が安置されているが、裏側の左右には、稲荷の神使の狐の木像が安置されていた。

狐の木造

 ここが、稲荷神を祀る神社であることを再認識させてくれた。

 さて、木山寺は、弘仁六年(815年)に弘法大師空海がこの地を訪れ、創建したと伝えられている。木山神社はその翌年の弘仁七年(816年)の創建と伝わる。

 昨日紹介した勇山寺にも、弘仁六年(815年)に弘法大師が訪れ、木造不動二童子像を自ら彫刻して祀ったという伝承がある。弘法大師が教えを広めるため、この地を訪れたというのは、実際にあったことなのかも知れない。

 弘法大師は、木山に登って、何か感じるものがあったのだろう。

参道

 随神門を抜けると、参道の石段が続き、正面に鳥居が、右手に絵馬殿が、左手に鐘楼がある。

鳥居

 右手に見える絵馬殿は、下が袴板で覆われているが、懸造のように斜面に半ば身を乗り出した造りである。

絵馬殿

 絵馬殿には、椅子と机が置かれ、休憩所になっている。

絵馬殿

 絵馬殿には、江戸時代からの絵馬が掛けられているが、中でも気になったのが、明治42年7月31日に発生した大阪天満大火で一万余戸が焼失した中で、木山明神を祀っていたために類焼を免れた薬店が奉納した絵馬である。

安住大薬房が奉納した絵馬

 この火災は、明治期の大阪市で発生した火災の中では最大のものであったという。

 鳥居の左にある鐘楼は、今は使われていない。

鐘楼

 鐘楼は、寺院にある設備である。神仏習合の名残を残す木山神社でも、流石に鐘楼を使うのは止したらしい。

 鳥居を潜ると、広い駐車場があり、その奥に木山神社の社殿と善覚稲荷神社、天満宮が並んでいる。

木山神社の社殿

 この日は、七五三参りの家族連れで賑わっていた。

 後で紹介する木山寺や木山神社奥宮と比べると、遥かに賑やかだった。

 木山神社が里宮を建てた理由が、少し分かった気がした。