波々伯部神社

 旧西光寺の仏像の拝観を終えて、次なる目的地の波々伯部(ほうかべ)神社に向かった。丹波篠山市宮ノ前にある。

 それにしても波々伯部とは変わった名である。私の知っている人に、波々伯部姓の方がおられた。

 その方は、「電話で『ほうかべです』と言うと、初めての相手からは大概『は?』と言われてねえ」とおっしゃっていた。

 波々伯部はこの地域の村の名である。波々伯部姓の方は、この地の在地領主だった波々伯部氏の子孫なのだろう。

波々伯部神社

 承徳二年(1098年)、波々伯部村が京都の祇園社(現八坂神社)に寄進された。祇園社の荘園になったようだ。

 その後、祇園社に祀られていた牛頭天王の御分霊をこの地に勧請し、波々伯部神社が建立された。

 そのため、この神社は、「丹波祇園さん」と呼ばれている。

 牛頭天王は、釈迦が説法したインドの祇園精舎の守護神とされている。日本では何故か素戔嗚尊に習合された。

 明治の神仏分離後は、波々伯部神社の祭神は素戔嗚尊になった。

 この神社の鳥居は、延徳二年(1490年)に建てられたとされる青銅製の鳥居である。

鳥居

 両方の柱に、「武運長久 諸民安穏」「天下泰平 五穀成就」と刻まれている。

「武運長久 諸民安穏」の文字

「天下泰平 五穀成就」の文字

 この鳥居は、嘉永三年(1850年)に修復されたものであるらしい。

延徳二年の銘

嘉永三年の銘

 鳥居の東側の柱の裏側を見ると、「嘉永三寅戌年三月吉日再建」とある。延徳二年の銘も、嘉永三年に刻まれたものだろう。

 この鳥居が延徳二年に建てられたものだったら、私が史跡巡りで見た鳥居の中で最古のものになるが、どうやら嘉永三年に再建されたものらしい。そのためか、この鳥居は丹波篠山市有形文化財である。

 この鳥居の右手に、篠山城から二番目の一里塚がある。

一里塚

 一里塚は、江戸時代に旅人の目印のため、街道沿いに一里毎に置かれた塚のことである。塚が崩れないため、木を植えて根で固めた。

 この一里塚は、既に塚の形を有しないが、植えられた木はまだ残っている。

 鳥居を潜ると、約100メートルの参道が続く。

参道

 参道の奥には、杉の巨木に囲まれた波々伯部神社の社殿が見える。なかなかの神々しさだ。

波々伯部神社の社殿

拝殿

 境内入口左側の水盤には、「祇園社御神前」「元禄五壬申(1692年)九月吉日」と刻まれている。

水盤

 波々伯部神社は、江戸時代には祇園社と呼ばれていたようだ。

 境内には、丈高い御神木が多数植えてある。

御神木

 波々伯部神社では、毎年八月第一土日に、祇園祭が行われる。氏子八ヶ村がサンシャと呼ばれる山車を出す。

 また、三年に一度、おやまの神事と呼ばれる祭礼が行われる。境内に「お山」と呼ばれる二基の屋台を作り、その上でデコノボウと呼ばれる操り人形を用いた劇を奉納する。

 このデコノボウは、文楽で使用する人形の祖型と見られており、謡曲も古式であるそうだ。中世芸能の伝承を残すものと見られている。

拝殿と本殿

本殿

 本殿は、入母屋造に千鳥破風と向拝の付いた様式である。

 本殿に施された彫刻は、中井権次一統のものである。本殿は、一統が活躍した江戸時代後期の建築だろう。 

本殿

本殿彫刻

蟇股の彫刻

手挟みの彫刻

脇障子の彫刻

 中井権次一統の作品の特徴である、エッジの効いた、彫の深い彫刻である。

 社務所には、江戸時代の奇想の画家長澤蘆雪の養子蘆州(1767~1847年)の描いた「月下芦雁図」などの襖絵24枚があるという。

社務所

 この建物も、蘆州が生きていた時代には建っていたものだろう。 

 本殿の隣には、不動明王を祀る護摩堂がある。

 先日紹介した磯宮八幡神社にも護摩堂があったが、明治の神仏分離までは、このような神仏習合が当たり前であった。民衆からすれば、神様仏様に違いはなかった。国家の介入以前の民衆の信仰形態が、本物の日本の伝統であると思われる。

護摩

 神仏習合こそが、日本文化の本来の姿だろう。明治の神仏分離以降に政府主導で作られた伝統は、仮構された伝統である。

 神仏習合の考えでは、日本の神々は、仏が民衆に信仰心を持たせるため、形を変えて権(かり)に現われたものであるとする。

 神様の元々の姿を本地仏という。例えば、牛頭天王素戔嗚尊本地仏薬師如来である。素戔嗚尊に手を合わせることで、薬師如来に手を合わせることにもなる。

 弘法大師空海は、著作「秘密曼荼羅十住心論」で、人間の精神を十段階に設定した。   

 第一段階の異生羝羊心(いしょうていようしん)は、煩悩にまみれた凡夫の心である。  

 第二段階の愚童持斎心(ぐどうじさいしん)は、道徳に目覚めて父母に孝行を尽くし、人を助ける儒教的段階である。常識人はこの段階にいる。

 第三段階の嬰童無畏心(ようどうむいしん)では、人は世俗を越えた信仰心を持つようになり、外部に神を設定し、それを崇めるようになる。空海は唐の長安で、ネストリウス派キリスト教イスラム教の教えを知ったことだろう。

 キリスト教イスラム教や神道のように、外部に神を設定する宗教は、真言密教では人間精神の第三段階に過ぎないが、密教はこの段階をも教えの中に包摂する。

 神が仏の変化した姿だという考えは、ここから来ている。バラモン教の神々も、インドで密教が取り入れた。

 日本の神仏習合の理論的支柱は、空海が用意した。空海が日本文化に齎した最大の影響は、この神仏習合だろう。

 「秘密曼荼羅十住心論」では、第四段階の唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)から人は悟りを目指す仏道に入り、第十段階の秘密荘厳心で宇宙の真理を象徴する大日如来と同様の境地に至るとする。

 第十段階は、第一段階から第九段階までを全て包摂する。煩悩にまみれた人々も、地獄の餓鬼も儒教の聖人も、日本の神様も釈迦も法華経の教えも華厳経の教えも、全て大日如来が変化した姿である。

 ここまで来れば何でもありで、少しズルイ気もするが、日本の信仰史は、現在でも空海の「秘密曼荼羅十住心論」で全て整理することが出来る。驚くべき卓見だ。

 戦後の日本では、政府が宗教に介入することはなくなった。これからの日本は、長い時間をかけて、再びかつての神仏習合の姿を取り戻すだろう。