宗形神社の参拝を終え、南西に車を走らせる。
播磨国一宮の伊和神社、但馬国一宮(二社ある内の一社)の粟鹿神社、美作国一宮の中山神社、淡路国一宮の伊弉諾神宮に続いて、私が訪れた五社目の一宮である。
吉備津彦神社は、大日本帝国時代の社格制度では、国弊小社である。
祭神は、第7代孝霊天皇の御子、大吉備津彦命とその子・吉備津彦命である。
大吉備津彦命は、第10代崇神天皇が全国制覇のために各地に派遣した四道将軍の一人で、山陽道に遣わされ、温羅(うら)という鬼を退治し、吉備を平定したとされている英雄である。
吉備津彦神社の背後にある吉備の中山は、山頂に巨大な磐座(いわくら、神が鎮座する岩)や磐境(いわさか、神域を示す巨石群)があり、太古から神域として崇敬されていた。
境内の神池に浮かぶ五色島にも、古代祭祀場とされる環状列石がある。
中山は、古代には、太陽を祀る聖地だったのではないか。
大吉備津彦命は、伝説的な人物で、281年間生きたとされているが、勿論これは誇張だろう。
中山の南側には、大吉備津彦命の陵墓とされる中山茶臼山古墳がある。4世紀築造の巨大な前方後円墳である。
大吉備津彦命が実在の人物かは分からないが、この古墳が大和王権につながる有力者の古墳であることは間違いないだろう。
持統天皇三年(689年)、吉備国が、備前、備中、備後に三分割されると、吉備津彦神社は、備前国一宮になった。
備中国の一宮は吉備津神社、備後国の一宮は同名の吉備津神社となった。
吉備津彦神社は、承和十年(843年)に一品(いっぽん)の爵位を贈与され、一品宮とも称された。
中世には、備前国で最も格の高い神社として、赤松氏や宇喜多氏といった武家や庶民の崇敬を集めた。
戦国時代後期になって、日蓮宗への改宗を迫る金川城主松田左近将監によって社殿を悉く焼かれた。
鳥居から長い参道を歩き、社頭に至る。社頭には、巨大な石灯籠が2つある。高さ11メートル、6段づくりで、笠石の大きさは八畳敷である。
国家安泰、五穀豊穣を祈念する灯籠を吉備津彦神社に寄進するため、地元有志が発起人となり、文政十三年(1830年)から安政四年(1857年)にかけて寄付をつのった。備前国一円と浅口郡の1670人余から5676両が集まり、安政六年(1859年)にその寄付金を基にこの大石灯籠が築かれた。
松田左近将監により灰燼となった吉備津彦神社であるが、元禄十年(1697年)には岡山藩によって再建された。
社殿は、拝殿、祭文殿、渡殿、本殿と連なる立派なものだが、昭和5年の火災により、随神門、本殿、宝物殿を残して焼失した。
その後、昭和11年に本殿以外の社殿が再建され、現在に至っている。
拝殿の側面に回ると、拝殿から本殿まで連なる雄大な社殿を見ることが出来る。
銅板葺の拝殿、祭文殿、渡殿は、昭和の建築だが、堂々とした建築物で、元国弊小社の風格を現している。
本殿は、桁行三間、梁間二間、流造、檜皮葺の流麗な建物である。
檜皮葺の屋根は、修復されてから間がないのか、美しい曲線を見せていた。
古代の吉備は、大和、出雲、筑紫と並ぶ四大文化圏の一つであった。出雲大社の大きな社殿が、古代出雲の勢力を今に伝えているように、吉備津彦神社の立派な社殿は、古代の吉備の勢力を今に伝えるものと言える。
古代大和王権を象徴する大神(おおみわ)神社の背後に御神体の三輪山があり、古代出雲王国を象徴する出雲大社の背後に御神体の八雲山があるように、吉備津彦神社の背後に聳える吉備の中山も、本来は山そのものが御神体とされていたことだろう。
大和、出雲、吉備のいずれも、山を神と崇めて王権の精神的支柱としていたと思うと、古代日本の心象風景が見えてくる気がする。