11月19日に但馬の史跡巡りをした。冬が来る前に、日本海側の史跡巡りを終えたかったのである。
最初に訪れたのは、兵庫県豊岡市三坂の山王山の中腹にある大石吉之進の墓である。
大石吉之進は、赤穂義士を率いた旧赤穂藩家老大石内蔵助良雄の次男である。
大石内蔵助が主君浅野内匠頭の仇討ちを謀った時、妻の大石りくは、夫と離別して、次男吉之進、三男大三郎、長女くう、次女ルリを連れて里の豊岡に帰った。
離別していれば、夫の仇討ちの挙に対して幕府からお咎めがあっても、子供達に累が及ぶことはない。夫は後顧の憂いなしに仇討ちに専念できる。覚悟の離別であった。
元禄十五年(1703年)、大石内蔵助と長男の大石主税(ちから)は、見事仇討を成し遂げ、主君の墓前に仇の吉良上野介の首級を捧げ、その後他の義士たちと共に自刃した。
豊岡で夫と長男の自刃を知ったりくは、吉之進を出家させ、竹野郷須谷の円通寺に入れた。大三郎は眼医者の林家に養子に入れた。
吉之進はその後、この三坂山王山にあった興国寺の僧侶になった。吉之進はここで修行に励み、父と兄の菩提を弔ったが、病気のため宝永六年(1709年)に19歳の若さで死去した。
興国寺は明治時代に廃寺になり、墓所だけが残された。
元禄赤穂事件は、後世の日本人の生き方の鑑として扱われるようになったが、その当事者の息子である吉之進は、父と兄の死に内心どのような思いを抱いていたのだろう。
静かに手を合わせて瞑目した。
さて、大石りくの実家は、豊岡藩京極家の重臣石束家である。りくの祖父石束源五兵衛毎術(つねやす)の墓がある曹洞宗の寺院、大原山養源寺に赴いた。
養源寺は、豊岡市元町にある。
養源寺は、大正14年の北但大地震で全壊したが、その後に徐々に復興した。
なかなか立派な山門を有しているが、この山門は、宮大工棟梁として有名な西岡常一が建設に携わったという。
山門を潜る時に天井を見上げると、龍の画が描いてあった。
後で知ったが、この龍の画の下で柏手を打つと、音が響くように山門が設計されているらしい。そのため、この龍は「鳴き龍」と呼ばれているそうだ。
養源寺には、大石吉之進が修行した興国寺の扁額や、興国寺開基の高泉禅師の書が保管されているという。
本堂は鉄筋コンクリート製である。戦後の建物であるらしい。
また、「兵庫県の歴史散歩」下巻によれば、本堂前に但馬国分寺の礎石の一つがあるとのことだったが、説明板がないのでどれがそうなのか分からなかった。
境内の南側に礎石らしい石があった。これが但馬国分寺の礎石なのだろうか。
本堂の裏手には墓地が広がる。本堂の南側に、大石りくの祖父・石束源五兵衛毎術の墓があった。立派な石造五輪塔である。
石束毎術は、養源寺の隆玄和尚に参禅し、延宝七年(1679年)二月二十八日に58歳で没したという。りくが10歳の時である。
墓石に刻まれた延宝七年の銘がかろうじて読める。
石束毎術は、孫娘のりくが嫁に行った赤穂藩大石家が、日本の歴史に残る仇討事件を起こすことになるとは夢にも知らず鬼籍に入った。
賢女とされるりくが育った石束家は、武家の心得を子供たちに常に教えていた家だったのだろう。
当主と長男の自刃で大石家は滅んだが、りくは、夫の死後残された子を守り、大石家の名誉を損なうことなく立派に振るまった。武家の妻としての務めを果たしたと言えよう。