この寺院は、天平十三年(741年)に聖武天皇が鎮護国家を祈念して、全国六十余国に建立した国分寺の一つである因幡国分寺の跡を継いだ寺院である。
寺伝によれば、寺域は二町(215メートル)四方で、七重塔が聳える壮麗な伽藍を有していたという。今の国分寺集落が、ほぼ全部かつての寺域に入るという。
その後、平安時代末期から因幡国分寺は衰退し、戦国時代には焼失した。
延宝二年(1674年)、興禅寺活禅和尚が、国分寺の衰退を悲しみ、黄檗宗の禅寺として再興した。
歴史を閲してきた古い石というものはいいものだ。
大伴家持が国司として赴任した天平宝字二年(758年)には、まだ建って間もない因幡国分寺の七重塔が、因幡国庁の正殿から眺められたことだろう。
さて、国分寺集落から東に行くと、低い丘のような山が見える。今木山である。
今木山の麓に広がる法花寺集落に、因幡国分尼寺の跡があるという。
国分尼寺は、国分寺と同じく天平十三年(741年)に聖武天皇により各国に建立された尼寺だが、「妙法蓮華経」を奉納したため、法華寺とも呼ばれた。
法花寺集落は、過去に法華寺があったと伝えられる集落である。
集落の南側に、「南無妙法蓮華経」のお題目を刻んだ石碑があり、その手前に手水鉢のような石が置かれている。
この石は、一見すると礎石のようには見えないが、これが国分尼寺の礎石として伝えられている石である。
この礎石は、江戸時代に法花寺集落の大庄屋福田氏により、田んぼの中から掘り出されたそうだ。
手水鉢に加工され、福田邸の庭に置かれていたが、その後町外に持ち出された。近年になってこの地に戻されたという。鳥取市指定保護文化財である。
国分尼寺の遺構はまだ発掘されておらず、ここが本当に国分尼寺の跡かは決定されていない。
今木山の中腹にある今木神社には、弥生時代の祈願石と見られる、今木神社刻石という不思議な石がある。
今木神社本殿は、覆屋の中にある。その覆屋の手前に、今木神社刻石が置かれている。
刻石には、幾何学模様のようなものが刻まれている。
説明板によると、中国神話の最初に出てくる女媧(じょか)、伏義(ふぎ)と虎、鳥、八の漢字が書かれているという。
説明板によれば、これは紀元前56年に刻まれた日本最古の漢字であるという。なぜこれが紀元前56年のものと分かったのか、その根拠は分からないが、人工の制作物であることは間違いなかろう。
不思議なものを見学した。
さて、因幡国庁や因幡国分寺、国分尼寺のあったこの辺りは、中世には国庁や国分寺、国分尼寺が衰退したため、歴史の表舞台から消えてしまった。
大正時代に鳥取市国府町町屋の桑畑を開墾中に見つかった銅鰐口に、「因州法美郡広西郷五日市町屋 地福寺」という銘文と、明徳四年(1393年)六月二十四日の銘文が陰刻されていた。
地福寺という寺は、今の町屋集落にはないが、室町時代に地福寺の市が毎月5日に開かれ、町屋集落が地福寺の門前町だったことを示す史料である。
中世のこの地域の歴史を示す唯一の遺物である。
この銅鰐口は、今は鳥取県指定保護文化財として、鳥取市国府町総合支所で保管されている。
国庁や国分寺は、奈良時代に国家が威信をかけて全国に築いたものだが、それも時代と共に衰微していった。
現代の首都東京や道府県庁所在地も、時代と共に今後どうなっていくか分からない。
ITやAIが発展し、自動運転や空飛ぶ自動車が発達した暁には、都市の風景も大きく変わることだろう。