最上稲荷の参拝を終えて、次なる目的地である葦守八幡宮に詣でた。岡山市北区足守に鎮座する。
この神社の参道の始まりにある石造の両部鳥居は、在銘の鳥居としては、岡山県下最古である。
両部鳥居というのは、鳥居の両足に稚児柱が付いているものである。
石造の両部鳥居というものは珍しい。
両部は、密教で言う金胎両部のことで、智の世界である金剛界と理の世界である胎蔵界を指す。
両部鳥居は、神仏習合の名残である。
葦守八幡宮の両部鳥居には、康安元年(1361年)の銘がある。南北朝の争乱期に建てられたものである。その時代から、ここに建ち続けている。
この鳥居は、当時の石造両部鳥居を伝える貴重な遺構として、国指定重要文化財となっている。
さて、鳥居を潜ると、葦守八幡宮のある丘に向かって真っすぐ参道が延びている。
この参道を直進すると、二の鳥居がある。
二の鳥居の先に、葦守八幡宮が鎮座する丘がある。
石段を登り、随身門を潜ると、瓦葺の立派な拝殿が見えてくる。
葦守八幡宮は、第15代応神天皇の皇妃兄媛(えひめ)命の郷里に建つ神社である。
応神天皇二十二年に、天皇は、淡路島、小豆島を経て吉備に上陸し、皇妃の郷である足守に臨幸した。ここはその時の行宮の跡である。
兄媛命の兄・御友別(みともわけ)命と、御友別命の子、稲速別(いなはやわけ)、仲彦、弟彦が天皇をもてなした。
天皇は、御友別命の饗応に感心し、子の三兄弟に吉備の地を分け与えた。
天皇の没後、御友別命の次男仲彦は、天皇の人徳を追慕し、天皇の神霊を行宮跡に斎き祀った。
これが葦守八幡宮の創建である。
平安時代末の「足守庄絵図」には、八幡社が描かれているという。
宝永三年(1706年)に旧本殿が建設されたが、文久三年(1863年)に発生した火災で焼失した。
拝殿幣殿は、慶応二年(1866年)に、本殿は明治3年に再建された。
葦守八幡宮に伝わる神宝として、岡山県指定文化財の木瀬浄阿弥作円鏡がある。
慶長十二年(1607年)に豊臣秀頼が寄進したものであるらしい。
本殿の脇に、謎の石造物があった。
亀の上に植物が載ったような石造物だ。いつ、何のために造られたものなのだろう。
ところで、最近小豆島の史跡巡りをして、応神天皇が小豆島に行幸した伝承を知った。
小豆島には、応神天皇を偲ぶ史跡が残っている。
私は、丁度応神天皇の足跡を辿って葦守八幡宮に詣でたことになる。
こうして応神天皇の足跡を辿ると、天皇が実際に活動していたという実感が湧く。
歴史上の一時代を追懐しながら旅をするのは、いいものである。