日出神社の参拝を終え、豊岡市但東町中山にある日本・モンゴル民族博物館に赴いた。
ここは、モンゴルに関する考古資料や歴史資料、モンゴル民族の生活文化に関する資料、モンゴルの主要な宗教である密教の資料、その他但東町の民俗資料などを展示する博物館である。
豊岡市に合併されるまでは、但東町は独立した自治体だった。但東町になぜモンゴルに関する博物館が?という疑問が浮かんだ。但東町がモンゴルのどこかの自治体の友好自治体だったのか?
どうやら現館長の金津氏が、モンゴル大使館に勤めていた時に集めたコレクションを但東町に寄贈し、平成8年に開館したようだ。
博物館の前には、オボーという、モンゴルで土地の守護神が宿るとされている石塔があった。
オボーはモンゴルの小高い丘の上や峠に祀られているという。モンゴル人は旅の途中にオボーの前を通りかかると、旅の無事を祈りながらオボーの周りを時計回りに3周するという。
オボーは、日本のお地蔵様みたいな位置づけだろうか。こんな素朴な民間信仰の姿を見ると、一挙に親近感が湧く。
学生時代にモンゴル語を学んだ司馬遼太郎は、モンゴル語と日本語は文法が同じで、モンゴル語にもテニヲハがあり、両語の違いは津軽弁と薩摩弁ぐらいの差しかないなどとどこかに書いていたが、この館を見学して、両国の間には、結構共通点があることに気がついた。
博物館の前には、チンギス・ハーンの像が建てられている。
チンギス・ハーンは、1206年に各部族に分かれて相争っていたモンゴル高原を統一し、クリルタイ(モンゴルの意思決定会議)で全モンゴルの王に推戴された。
西隣のウイグル国は、統一されたモンゴルの軍事力に恐れをなして、戦わずしてチンギス・ハーンに服属した。
そのウイグルの西にある中央アジアを治めていたイスラム教国のホラズム王国の王は、通商を求めてきたモンゴルの力を見くびって軽くあしらった。怒ったチンギス・ハーンは、20万の騎兵を率いてホラズム王国を攻撃し、1222年に滅ぼした。
このチンギス・ハーン像は、ホラズム王国を征服して得意の絶頂にあったころのチンギス・ハーンをイメージしているらしい。
さて、館に入ってすぐの空間は、「たんとうの森」と言って、但東町の森をイメージした空間になっている。
ここに、江戸時代末期に、但東町の水石地区の井戸の底から見つかった水石朽ち木仏像群の一部が展示してある。
これらの仏像は、寄木造ではなく、檜の一木造りである。また肩の形や衣文の特徴から、平安時代初期に作られた仏像の可能性が高いという。平安時代中期以降の仏像は撫で肩だが、水石朽ち木仏像群には、肩が怒っているものがあるという。
平安時代初期ならば、最澄、空海やその直弟子が活躍した時代である。朽ちているとはいえ、そのような時代の仏像が残っていたのは、ありがたいことである。
また「たんとうの森」には、モンゴルの民芸品も展示されている。
「たんとうの森」の次は、「アジアの歴史と風土」コーナーに行く。この一角に、オリエント美術コレクションがある。
アメリカ人でペルシャ美術研究者のジェイ・グラック氏が、1960年代、1970年代にイランで収集したコレクションを展示している。
グラック氏は、1979年のイラン・イスラム革命を受けてイランを出国し、日本人配偶者と神戸に住んだ。
このコレクションは、グラック氏が但東町に寄贈したものである。
紀元前2700年に彩文の器があるのは驚きだ。
ガラス制作は、エジプトやメソポタミアで始まったそうだが、ローマ時代に吹きガラス法が発明され、安価なガラス器の量産が可能になった。
ローマ帝国が一時支配していたシリアを制圧したササン朝ペルシャは、ローマ・ガラスの影響を受けて宙吹き法、型吹き法を用いてガラス器を制作した。
ササン朝ペルシャが制作したガラス器は、シルクロードを経て我が国にも伝来した。正倉院宝物にもペルシャのガラス器があるのはよく知られている。
上のラスター彩花文鉢は、13世紀の制作のようだが、13世紀はペルシャもモンゴル帝国の支配下に置かれた時代である。
この器の制作者は、モンゴル軍の襲来をどういう気持ちで受け止めたのだろう。
私は学生のころ、世界史の中でもモンゴル帝国や西域と呼ばれる中央アジアの歴史が好きだったが、このエリアは東西文明の情報伝達の場となっているのが特徴である。
史跡巡りでよく仏像を紹介するが、仏教の発祥期には仏像は制作されていなかった。
アレクサンドロス大王がインダス地方を征服し、ギリシア彫刻の技術を現地に伝え、それがインダス地方に伝播していた仏教と融合して仏像が誕生した。
考えようによっては、仏像はギリシア彫刻の末裔なのである。
文化が混交し、伝播して次から次へと新しい文化が生まれてくる様相は面白い。
モンゴル帝国は、東アジアからヨーロッパまでを征服し、東西文明を混交させ、人類文明に新しい画期を齎した帝国である。