豊岡市 日出神社

 亀ヶ城跡から下山し、車に乗って東に向かう。

 兵庫県豊岡市但東町畑山にある日出神社を訪れた。

日出神社

 日出神社の創建がいつなのかは分かっていない。祭神は、太古に新羅から但馬に渡来し、但馬の開発を行ったという天日槍(あめのひぼこ)の四世の孫、多遅摩日多訶(たじまひたか)と言われている。

 日出神社の本殿は、16世紀前半に建てられたものだという。江戸時代以降4度修復され、建物の用材も大部分が新しくなっているが、蟇股、手挟などに建築当初の用材を残しており、室町時代末期の特徴を持っているという。国指定重要文化財である。

日出神社本殿

 本殿は、杮葺きの屋根を持つ三間社流造である。

 建物正面の外陣が開放され、その奥に内陣の板扉がある。珍しい構造の本殿だ。

内陣の板扉

 蟇股や手挟が室町時代のままだというが、外陣内にある手挟は見ることが出来なかった。

 参拝していると、スズメバチが外陣の内部から出てきた。本殿内に巣を作っている可能性がある。あまり本殿に近寄ることが出来なかったのだ。

蟇股の彫刻

 屋根の杮葺きの曲線が美しい。近年補修を終えたものだろう。

杮葺きの屋根

 本殿は、室町時代末期に建てられたが、その後宝永元年(1704年)、享保十一年(1726年)、明治21年、昭和48年の4回修復されている。

 建物に使われている木材の大半は新しいものだが、柱と舟木の一部に室町時代のものと思われるものがあった。

室町時代の柱と舟木

 上の写真の中央の柱とその上の舟木には、小さな虫食いの穴が沢山開いている。私は今まで室町時代に建てられた神社を多く見てきたが、だいたい木材にこのような虫食い穴が開いていた。

 この柱、舟木の周辺の板や横木は新しいが、この柱と舟木は、虫食いの状況からして建築当時のものだろう。

 境内には、農村歌舞伎舞台もある。

農村歌舞伎舞台

 さて、本殿の北隣には、恒良(つねなが)親王御旧跡の石碑が建っている。

恒良親王御旧跡の石碑

 恒良親王は、後醍醐天皇の皇子である。天皇側と鎌倉幕府が戦った元弘の乱後醍醐天皇が敗れると、恒良親王は但馬に配流となり、但馬国守護太田守延に預けられたという。

 その後、後醍醐天皇が配流先の隠岐から本土に戻り再起すると、太田守延は恒良親王を奉じて挙兵し、六波羅探題を攻撃した。

 この地は、恒良親王が住んでいた場所なのだろうか。確かに近くに太田氏の居城である亀ヶ城跡があるので、伝承は正しいのかも知れない。

恒良親王御旧跡の碑

 恒良親王は、鎌倉幕府滅亡後、皇太子になったが、湊川の合戦で後醍醐天皇側が足利尊氏に敗れると、新田義貞と共に北陸に逃れ、金ケ崎城に拠った。親王はそこで天皇を名乗ったという。

 しかし、室町幕府軍の攻撃に新田義貞が敗れ、金ケ崎城が陥落すると幕府方に捕らえられた。親王は京都にて幽閉され、毒殺されたという。悲劇の皇族の一人だろう。

 但馬には、あまり人に知られていない歴史が古くから伝承されている。独特の文化圏であると感じる。