日本・モンゴル民族博物館 その2

 日本・モンゴル民族博物館の「アジアの歴史と風土」コーナーには、モンゴル国と中国の内モンゴル自治区から出土した考古資料、歴史資料が展示してある。

 モンゴルは、1921年中華民国からの独立後、長い間ソ連の影響下にあり、社会主義国家になっていたが、1992年にモンゴル人民革命党一党独裁社会主義を放棄し、国名をモンゴル人民共和国からモンゴル国にした。

 漢人の影響力が強く、中国から独立できなかった内モンゴルは、今も中華人民共和国自治区になっている。

石器(モンゴル国出土 約6000年前)

 モンゴル国から出土した新石器時代の石器が展示してあったが、新石器時代のモンゴル人には、まだ乗馬という習慣はなかっただろう。彼らはどんな生活をしていたことだろう。

骨の鎌(内モンゴル自治区出土 約6000年前)

 同じ時代の骨の鎌が展示してあったが、農耕もなく、森林もなく、草原が続くモンゴル高原で、これをどういう用途に使っていたのだろうか。

 6000年前は、モンゴル高原の気候は、今と少し異なっていたのか。

 さて、人類史上初の騎馬遊牧民は、紀元前9世紀ころに今のウクライナ、ロシア南部の平原に出現したスキタイ人だとされている。

 スキタイ人は、馬に乗りながら家畜を遊牧し、広大な草原を移動しながら生活した。

 ロシア南部の草原は、東はモンゴル高原、西は東ヨーロッパまで続いている。文化は草原を通じて伝達された。スキタイの遊牧文化の影響を受けて、モンゴルにも騎馬遊牧生活が根付いたのではないか。

青銅製の刀子

動物を象った青銅製品

 スキタイ人は、金属製品の加工に優れていた。馬具、日常生活用具、装飾品、武器などの装飾に、動物を象った意匠を施した。

 スキタイの金属加工文化は、草原を通じてモンゴルからヨーロッパまで伝わった。

 上の写真の右上の動物紋鍍金帯飾板は、今でいうベルトのバックルである。

 今全人類が毎日何気なく穿いているズボンは、馬にまたがる遊牧民族が考え出した下衣である。

 ズボンをずれないようにするベルトやベルトのバックルも、遊牧民がズボンに着けていた。

 我々は毎日ズボンを穿いてベルトを締めているが、これは遊牧民の風俗を現代人が毎日無意識に行っていることになるのである。

 中国で漢が成立したころ、モンゴル高原には匈奴(きょうど)という遊牧民族国家があって、漢を脅かしていた。

漢の版図と匈奴

灰陶人馬俑(漢時代 内モンゴル自治区出土)

 上の灰陶人馬俑は、内モンゴル自治区から出土したもので、漢の時代に作られたものだが、馬のくつばみを取る人物が造形されている。ちゃんとズボンを穿き、ベルトを締めている。
 匈奴は秦の時代から、たびたび漢族の領土に攻め込んできたので、秦は万里の長城を築いて防衛した。

 ローマ帝国滅亡の呼び水となるゲルマン民族の大移動を齎したのは、東の草原から現れて東ヨーロッパの草原に侵攻してきたフン族という遊牧民である。

 匈奴がフンと呼ばれていたという説があり、匈奴が西に移動してフン族になったという学説もある。

 確かに匈奴モンゴル高原からいなくなった時期とフン族が東ヨーロッパに現れた時期は接近している。両者には何らかの関連があるのかも知れない。

 匈奴がいなくなってから、中国北方の草原は、鮮卑(せんぴ)、柔然(じゅうぜん)といった遊牧民が支配した。

 6~8世紀半ばに、中央アジアから出現し、モンゴル高原を支配した遊牧民突厥(とっけつ)は、正式にはテュルクと呼ばれていた。

 今のトルコ人ウイグル人は、テュルク系遊牧民の末裔である。

突厥が建てた石人像

石人像のレプリカ

 モンゴル高原には上の写真のような石人像が残されているが、これは突厥人が戦闘に斃れた人を追悼するために建てたものとされている。

 10世紀になると、内モンゴル遊牧民契丹(きったん)がモンゴル高原を制圧して更に東進し、満州沿海州に進んだ。そして沿海州にあった平安時代の日本の同盟国渤海(ぼっかい)を滅ぼし、遼を建国した。

 館には、内モンゴル自治区から出土した11世紀末の遼の墳墓の模型が展示してあった。

遼代墳墓の模型

墳墓の墓室

 墳墓は地下に築かれ、階段で地下深くに築かれた墓室に降りるようになっている。墓室は煉瓦で半球形に作られており、遊牧民が住んだ住居ゲルを思わせる形である。

 これは遼の貴人を葬った墳墓とされている。

 階段の壁には、当時の遼の葬送儀礼を描いた壁画がある。

階段の壁画

 遼の墳墓からは、馬の尻にかけられたベルトの装飾金具の尻繋(しりがい)が出土している。

遼代墳墓から出土した尻繋

 現代人が車やバイクをカスタマイズするように、遊牧民は大事な移動手段の馬を飾ったようだ。

 遼は万里の長城の南側にも進出し、遊牧民でありながら中国の文化や仏教も取り入れた。

 12世紀初め、遼は満州の狩猟民族・女真(じょしん)族が建国した金により滅ぼされる。

 契丹族の一部は、草原を西に逃げて中央アジアに西遼を建国した。

 金は、満州沿海州華北地方を領有する大国になったが、遊牧民ではなかった女真族モンゴル高原には進出しなかった。

 遼の支配から解放されたモンゴル高原は、力の空白地帯になり、モンゴル、メルキト、タイチウト、ケレイト、ナイマンといった各部族が割拠して相争うようになった。

 そしてこの争いの中から、人類史上最大の版図を征服したモンゴル帝国が登場するのである。モンゴルという名は、当時のモンゴル高原の一部族に過ぎなかったモンゴル部族から来ている。

 遊牧民の文化と生活様式は、自動車や鉄道が出現する前に地上で最速の移動手段だった馬により、広大なユーラシア大陸の東西に伝播した。

 ユーラシア大陸中央が比較的寒冷で乾燥していて、森林が出来ず草原が広がったことが、騎馬遊牧民の文化を形成した。

 草原と馬と家畜により成り立った遊牧民の文化は、人類史の大きな部分を占めていると言える。