紀淡海峡を西側から扼する要衝に当たる由良の地には、幕末になって、外国船の侵入から大坂湾を防衛するための台場(砲台)が築かれた。
特に成ヶ島南端の高崎台場には、大規模な砲台が築かれたそうだ。
日清戦争後の明治29年(1896年)には、大阪湾防衛のために、由良に陸軍の要塞が造られた。
成ヶ島だけでなく、その南側にある生石(おいし)山にも砲台が築かれた。
紀淡海峡にある友ヶ島にも砲台が築かれた。こちらは由良要塞跡よりも煉瓦造りの遺構がよく残っており、近年「ラピュタの島」として観光資源になっている。
外敵が大阪湾に船で侵入するには、紀淡海峡か明石海峡を通らなくてはならない。明石海峡を通過するには、そもそも瀬戸内海を通過しなければならないので、こちらの防衛はしやすい。
必然的に、紀淡海峡の防備が重要になる。
生石山から成ヶ島に向かって、砂州が伸びている。かつて成ヶ島と接続していた砂州である。
この砂州の先端に向かって歩くと、右手に紀淡海峡と海の彼方の和歌山市街が見える。
わが史跡巡りも、ついに和歌山市が見える場所まで来たのだ。
砂州の先端には、波切不動尊と呼ばれる不動明王の石像が祀られていた。
紀淡海峡を往来する船舶の航行の安全を祈るために祀られたものだろう。
この波切不動尊の横に花開いたサボテンがあった。
天然のサボテンの花には中々お目にかかることが出来ない。いいものを目にすることが出来た。
波切不動尊の先に立つと、成ヶ島南端の、高崎台場のあたりが目の前に見える。
高崎台場のあった辺りには、今は灯台が建って船舶の道標になっている。
シーカヤックでもあれば、向こう岸にすぐ上陸できるだろう。
そこからは北に向かって延々と砂州が延びて、成ヶ島北端の成山までつながっている。
天橋立のように、橋をかけて成ヶ島に渡れるようにしたら、ここにはもっと観光客が来るだろう。
しかし、成ヶ島には、希少種の植物が自生しているそうなので、今のようにそっとしている方がいいのかも知れない。
幸いにして、由良要塞は実戦では使用されなかった。
白村江の戦の後に築かれたものを初めとして、歴史上、日本が外敵に備えた設備は、遺跡としてあちこちに残っている。
今の日本も安全保障環境の激変に晒されているが、こうした防衛設備の変遷を知ると、安全保障環境の変化の歴史を辿ることが出来る。
今の自衛隊や米軍の基地も、いずれ遺跡となる時代が来るのだろう。