淡路国分尼寺跡 和光山神本寺

 兵庫県南あわじ市八木徳野にある笑原神社東宮から真っすぐ南に下ると、T字路に突き当たる。

 このT字の先の畑に、かつて徳野塚村古墳があったと言われている。

徳野塚村古墳のあった辺り

 昭和26年に農家が畑を開墾していると、須恵質の陶棺が見つかった。長さ91センチメートル、幅35センチメートル、高さ36センチメートルという、棺にしてはかなり小さな陶棺であった。

 7世紀前半に製作された陶棺と言われているが、他の出土品が少なく、どんな古墳があったのか分かっていない。

 徳野塚村古墳があった場所から、西に約1キロメートル行った南あわじ市八木新庄にある稲荷神社は、淡路国分尼寺があった辺りだと言われている。

淡路国分尼寺跡に建つ新庄稲荷神社

 稲荷神社の隣には、大峯山護持院桜本坊の別院である金雲山理祥院尼ガ寺という修験道の寺院がある。

大峯山護持院桜本坊別院金雲山理祥院尼ガ寺

 大峯山護持院桜本坊は、奈良県の吉野にある金峯山修験本宗の寺院である。

 この理祥院尼ガ寺も、修験者たちの拠点なのであろう。尼ガ寺という名称は、国分尼寺の跡地に建っていることを意識しているのであろう。

 グーグルマップで理祥院尼ガ寺に登録された写真を見ると、このお寺は、この地から出土した国分尼寺の軒平瓦などを保管しているようだ。

 ここから北に約500メートル進んだ南あわじ市榎列下幡多(えなみしもはた)に、真言宗の寺院、和光山神本寺(じんぽんじ)がある。

神本寺(左)と八幡神社(右)

 淡路南部の例に漏れず、神本寺の隣には八幡神社がある。玉垣も分け合っている。

 江戸時代まで、両者は一体だったのだろう。

神本寺

 神本寺の建つ辺りは、奈良時代南海道の駅である神本駅(みわもとのうまや)があった場所と言われている。

 奈良時代には、律令制度が整えられたが、中央の指令を地方に伝達するための道路網も整備された。国家による統治には、道路網は欠かせない。

 道路の途中には、駅(うまや)が置かれ、馬が配備されていた。

本堂

本堂の厨子

 中央の使者は、駅に配備された馬を乗り継いで道を行き、指令を地方に伝えた。

 紀伊、淡路、讃岐、阿波、伊予、土佐は、南海道とされた。平城京を発した使者は、紀州加太から紀淡海峡を渡って淡路の由良に上陸した。由良から北上し、今の洲本市千草、洲本市大野、南あわじ市広田を経て、この神本駅にやってきた。

 その後、福良から鳴門海峡を渡り、阿波国の牟夜(現徳島県鳴門市撫養)に入った。

 これが当時の南海道のルートである。

薬師堂

薬師如来坐像

 神護景雲二年(768年)には、福良駅に近いという理由で、神本駅は廃止になったという。

 神本駅は、歴史上僅かな間しか駅の役割を果たさなかったようだ。

神本寺石造五輪塔

 近年、神本寺北側の道路新設工事中に、1辺1メートル前後の大型方形柱穴で構成された2×4間の掘立柱建物の跡が見つかった。幡多遺跡の一部である。

 付近から当時の役人や僧侶しか使わなかった硯が発掘されたことから、この辺りが神本駅の跡と特定された。

 神本寺と八幡神社は、いつしか神本駅の跡地に創建されたのであろう。

 神本寺の境内には、鎌倉時代に製作された石造五輪塔がある。底辺の地輪が通常であれば方形であるが、この石造五輪塔は台形である。珍しい形だ。

 今、Chat GPTを行政に利用するか議論が進んでいるが、いつの世も、国家の統治のためには、最新の技術が取り入れられる。

 律令時代には、硯と筆と墨と木簡を用いた文字の伝達と、乗馬の技術が、国家の統治に必要不可欠であった。今はそれがAIになりつつあるということだろう。

 AIがどのように我々の生活を変えるか、現状では読み切れないが、神本駅がなくなったように、我々が当たり前と思っている設備がなくなることも将来あるかも知れない。