私部市場城跡

 10月1日に因幡の史跡巡りをした。

 最初に訪れたのは、鳥取県八頭郡八頭町市場にある市場城跡である。

 この辺りは、昔から私部(きさいち)と呼ばれている。奈良時代には既に私部郷という名称の村があったようだ。

城山

 私部の中心に標高約276メートルの城山がある。比高約170メートルである。

 この城山の上に市場城跡がある。

 城山の北側には、市場の集落が広がる。集落の中心を通る東西道を歩くと、登山道入口が見えてくる。

登山口

 私が登山口から山に向かうとき、たまたま登山口付近におられた地元の年配の男性から、「登られますか」と声をかけられた。

 私は、「はい」と元気よく答えて山に向かった。

 下山してから気が付いたが、この登山口の近くに、地元の郷土史家が書いたと思われる市場城跡の案内板があった。

市場城跡の案内板

市場城跡の縄張り図

 案内板に描かれた城跡の縄張り図を見ると、本丸を中心に放射状に曲輪が築かれた連郭式城塞であることが分る

 城郭遺構の範囲は、南北約600メートル、東西約400メートルに及ぶ。

 この曲輪群を全て見学すると時間が幾らあっても足りないだろう。

 私が登った道は、城山の北側から入り、南東の本丸跡に向かう道で、途中「かえる岩」と呼ばれる巨岩のあるルートである。

かえる岩の付近

 先ほどの写真の登山口をまっすぐ歩くと、山際で道が二手に分かれる。

二手に分かれる道

 私はここを左に行った。真っ直ぐ行っても、他の曲輪群を見学できる。

 すぐに切岸があって、切岸の上にかつて龍蛇さんという祠のあった曲輪がある。

切岸

龍蛇さん跡の曲輪

 龍蛇さん跡の曲輪の奥には、一体の石地蔵がある。

石地蔵

 この石地蔵、いつの時代からあるものだろうか。

 市場城を築いたのは、鎌倉時代にこの地方の地頭になった毛利氏と言われている。長州藩を開いた毛利氏とは別で、大江広元を祖とするらしい。

 文明十一年(1479年)、市場城を拠点とする毛利次郎貞元は、播磨の赤松氏と結び、因幡国守護山名氏に反旗を翻す。

 毛利貞元は、一時因幡全域を制圧するが、山名氏の惣家である但馬国守護山名氏の攻撃により敗北した。

 敗れた貞元は、命は助けられた。

祠跡

 龍蛇さん跡の上には、かつて愛宕社があった曲輪がある。祠のあった場所に、石組が残されている。

 さて、命を助けられた貞元だが、長享二年(1488年)に播磨国守護代浦上則宗の後援を得て再度反山名氏の兵を挙げた。だがこれも山名氏により鎮圧され、貞元はこの市場城で自刃した。

 愛宕社跡の曲輪から更に上ると、かえる岩というカエルのような姿をした巨岩がある。

かえる岩

 確かにカエルに似ている。偶然こんな形に岩が割れたのか、誰かが意図的にこの形に作ったのか、分からない。

 ここから更に上っていくと、小規模な曲輪がある。

曲輪

 この曲輪から南に歩くと、二の丸跡の西側にある広い曲輪に出る。

二の丸跡西側の曲輪

本丸跡周辺の縄張り図(図の上が南)

 二の丸跡の切岸は、立ちはだかるように聳えている。

二の丸跡の切岸

 市場城は、毛利氏の滅亡後、天文年間(1532~1555年)、永禄年間(1558~1570年)には、但馬山名氏と因幡山名氏の間の抗争の舞台になった。

 元亀年間(1570~1573年)、天正年間(1573~1592年)には、安芸毛利氏と尼子氏がこの城を奪い合ったという。

 二の丸跡に上がると、曲輪が広がる。

二の丸

 二の丸跡の北西側に眺望がきくところがあった。

 はるか遠くに日本海が見えた。当ブログの旅で、最初に目にした日本海である。ついに当ブログも、日本海が見えるところまでやってきたのだ。

二の丸からの眺望

 さて、二の丸跡の更に上には本丸跡がある。

 本丸跡は、全長約70メートル、幅最大約17メートルの細長い曲輪である。

本丸跡

 本丸跡の北側は完全に削平されているが、南側には所々巨岩が転がっている。

 市場城は、戦国時代に激しい戦いの舞台になった城である。

 かつて戦いのあった城からは、ただただ静けさを感じる。だが耳を澄ませば、武士たちの鬨の声が空気の隙間から聞こえてきそうだ。