神戸海洋博物館 その3

 神戸の海岸線は、北風を防ぐ六甲山や、西風と明石海峡の早い潮流を防ぐ和田岬に守られ、水深が深く、干満の差が少ない事から、良港としての条件を持っている。

 今の神戸港の直接の祖先と言ってよいのが、天平年間(729~749年)に僧行基が築いた大輪田泊(おおわだのとまり)である。

 行基は、寺院の建築だけでなく、社会事業の一環として、摂播五泊と呼ばれた五つの港を築いた。その一つが大輪田泊であった。

 行基は、石材を積んで防波堤や岸壁、護岸を造ったそうだ。大輪田泊は、遣唐使船が立ち寄る湊の一つにもなった。

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遣唐使船の模型

 承安三年(1173年)、平清盛大輪田泊に人工島経ヶ島を築いた。

 ここを日宋貿易の拠点にし、都を遷そうとまで考えた。

 清盛が大輪田泊を大改修したころから、大輪田泊は兵庫津と呼ばれるようになった。

 兵庫津は、平氏の時代には日宋貿易の拠点となり、江戸時代には北前船の寄港地となった。

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北前船

 安政五年(1858年)の日米修好通商条約により、函館、新潟、横浜、神戸、長崎が開港場に決まった。

 しかし、その後の尊王攘夷運動の激化と朝廷が開国に反対したことにより、開港は遅れた。

 神戸港が開港したのは、新暦1868年1月1日である。

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開港前の神戸港と開港時の神戸港

 上の開港以前の神戸港の図を見て分かるように、現在の神戸港は、旧生田川と旧湊川の間の海岸に出来た港である。

 なぜ、兵庫津がそのまま利用されなかったのだろうか。恐らく、兵庫津は、欧米の大型船が接岸できる環境ではなかったのだろう。

 神戸港開港の日には、イギリスの軍艦ロドニー号が神戸港沖で祝砲を撃って開港を祝ってくれた。

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神戸港開港を祝砲で祝ったロドニー号

 旧湊川河口の西側に、4つの埠頭と税関が造られ、神戸港が開港した。その近くに外国人居留地が造られた。

 また、外国の技師の指導で、神戸に電信と鉄道が開通した。

 この居留地に住む外国人たちが、珈琲や映画やボーリングといった欧米の文化を日本に齎した。

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外国人居留地

 日本政府は、外国人による土地取得は許可せず、政府によって土地を競売にかけ、落札者が永代借地権を持つという制度を施行した。

 外国人居留地は、明治32年に廃止されたが、永代借地権制度は昭和17年まで続いたそうだ。

 明治41年には、神戸港から第1回ブラジル移民船の笠戸丸が出港した。

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笠戸丸の模型

 笠戸丸が出港した明治41年の前後の明治40年から大正11年にかけて、神戸港は第1期修築工事を行った。

 国内で先駆けとなるコンクリートケーソン工法が導入され、新港第1~第4突堤、東防波堤、物揚場、上屋が造られた。

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新港修築のころ

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現在の新港突堤

 新港というから新しいのかと思いきや、もう完成してから100年経つのだ。新港第3突堤からは、さんふらわあ号などのフェリーが出港している。

 その後、第一次世界大戦中の好景気から、神戸港を通した貿易量が増大した。大正8年から昭和14年にかけて、第2期修築工事が行われ、中突堤、兵庫突堤の新築、防波堤の延伸などの工事が行われた。

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第二期修築工事のころの神戸港

 戦後の昭和34年から、六甲山麓の土砂を切り崩し、港の埋め立てに使うという画期的工法で、港は更に広げられた。

 この時に摩耶埠頭が出来た。

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昭和34年ころの神戸港

 昭和41年から、神戸港沖に人工島ポートアイランドを建設するという工事が実行された。

 この計画は、六甲山周辺の山を掘削し、その土砂を神戸港沖に運んで埋め立てて人工島を造ると同時に、掘削した山地に新興住宅地を造るという一石二鳥を狙ったものだった。

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ポートアイランド建設中の神戸港

 神戸市須磨区高倉台名谷、横尾といった新興住宅街は、このポートアイランドの建設と同時に造られた町である。

 ポートアイランドは、昭和56年に完成した。

 新興住宅街を広げた神戸市の人口は急増した。市長のリーダーシップで発展する神戸市は、いつしか株式会社神戸市と呼ばれるようになった。

 貿易量が増大し、コンテナ船が巨大化しているため、ポートアイランドを造成しても神戸港の貨物取扱能力が飽和状態になるという予測から、更に人工島六甲アイランドが造成された。

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六甲アイランド造成中の神戸港

 六甲アイランドは、昭和47年から平成4年にかけて建設された。

 六甲アイランドの造成には、神戸市北区や西区の山林を切り崩した土砂が使われた。ポートアイランド造成の時と同じように、土砂を掘った場所に新興住宅地が造られた。神戸市西区の西神中央や、北区の小倉台などは、この時に造られた町である。

 こうした神戸市の努力が実ってか、昭和48年には神戸港のコンテナ取扱量が世界一になった。世界一の貿易港になったのである。

 平成6年には、神戸港のコンテナ取扱量はピークに達した。

 神戸には、日本有数のディープスポット、高架下商店街があるが、私が震災前に高架下を訪れた時は、外国人船員と思われる人たちがうろうろし、色々な怪しげなものが売られていた。このころが、神戸港の最盛期だったろうが、震災後、このような風景はなくなった。

 平成7年の阪神淡路大震災で、神戸港は壊滅的な打撃を受け、貨物取扱量も減少した。

 しかしその後神戸港は地道に復旧工事を行い、ポートアイランド第2期や神戸空港を築き、更に港を拡大させた。

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復旧中の神戸港

 今、神戸市は人口減少に悩み、その政策も迷走しているように見えるが、神戸港開港150周年の平成29年には、貨物取扱量は、平成6年を超えて過去最高になった。

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現在の神戸港

 西日本最大の貿易港の地位はまだ揺らいでいない。

 今、神戸港では新港第1突堤基部の再開発事業が進んでいる。劇場型アクアリウムや商業施設をオープンさせ、ベイエリアを一新しようとしている。

 神戸港の歴史は、大輪田泊からの歴史を併せて考えれば、日本の海外との交流の歴史そのものと言ってよい。

 人に歴史があり、街に歴史があるように、港にも歴史がある。神戸港のこれからの歩みからは目が離せない。