神戸市立博物館を出て、京町筋を南に歩くと、京橋に至る手前の左側に、史跡海軍操練所跡の碑が建っているのが見えてくる。ここは神戸市中央区海岸通17番地になる。
文久三年(1863年)、摂津の海岸防備の準備のため、この地方を巡視した14代将軍徳川家茂に随行した軍艦奉行勝海舟は、家茂にこの神戸の地が国防上の要港であることを力説し、海軍操練所設置の必要性を説いた。
その意見が容れられて、元治元年(1864年)に、この地に海軍操練所が開設された。
海軍操練所は、海軍兵学校、機関学校、海軍工廠を有する大組織で、施設はこの石碑のある場所から現在の神戸税関本館のあたりまで広がっていた。
勝海舟は、ここに天下の逸材を集めて育成した。坂本龍馬も陸奥宗光も、海軍操練所で教育を受けた。
元治元年に発生した禁門の変に海軍操練所の出身者も参加していたため、幕府は慶応元年(1865年)三月に海軍操練所を閉鎖した。
開設された期間は短かったとは言え、神戸の海軍操練所は、日本海軍発祥の地と言ってもよい。日本海軍の後を受け継いだ海上自衛隊は、世界有数の実力を有し、今この瞬間も日本の海を守っている。
島国日本にとって、海防は国家の死命を制する。勝海舟は、今の日本人にとっても恩人である。
さて、ここからフラワーロードに向かって歩き、神戸市中央区加納町にある東遊園地を訪れた。
JR三ノ宮駅から南に延びる通称フラワーロードは、江戸時代まで流れていた旧生田川の跡である。
旧生田川が、少しの大雨で氾濫を起こしていたため、明治に入って居留地側から河川の改修の要望が出された。
明治4年に、神戸の商人の加納宗七が生田川の付け替え工事を行った。生田川はここから東に約800メートルの場所を流れるようになった。
加納町の地名は、この加納宗七の名から来ている。
明治8年に、居留地に住む外国人のために、この旧生田川の河川敷に造られたのが、内外人公園であった。
内外人公園は、その後幾多の名称変更を経たが、大正11年には、今に続く東遊園地という名称になった。
明治時代の内外人公園では、外国人がラグビーやサッカー、テニス、野球などに興じた。
そのため、ここは日本における各スポーツの発祥地のような場所になった。
東遊園地の南側には、東遊園地を象徴するこうべ花時計がある。
こうべ花時計は、昭和32年に設置された。平成19年には、設置から50年ぶりに時計内部の機械が更新された。
こうべ花時計の背後に見える建物は、今年3月にオープンした、子ども本の森神戸という図書館である。
東遊園地には、加納宗七の像や、ボーリング発祥の地の碑、外国人スポーツクラブKRACの創設者であるイギリス人A.C.シムの記念碑、日本に移住したポルトガル人の文学者モラエスの胸像、日本近代洋服発祥の地の碑など、様々なモニュメントがあるようだが、私が訪れた時は大規模な改修工事中で、公園内に立ち入ることが出来なかった。
公園の一角に、そこだけ工事現場になっていない場所があった。
煉瓦が重ねられ、その上に水が滾り落ちる噴水が設置されている。
最初は、ここがどういう場所なのか分からなかった。とりあえず、煉瓦に囲まれた地下に通ずる階段を下りて行った。
地下に下りると、円形の地下室があり、ガラスの天井の上に、さきほどの噴水の水が落ちて静かに音を立てていた。
この部屋に入った途端に、不思議なことに知らず知らず目から涙が噴き出そうになった。
この部屋の壁を見て理解した。ここは阪神淡路大震災で亡くなった方々の名前を刻んだプレートが設置された慰霊のための部屋だった。
ここは、慰霊と復興のモニュメントという場所であった。
この部屋のガラスの天井に落ちる水は、震災の犠牲者のために永久に流し続ける涙を象徴しているように思えた。
それにしても、知らず知らず涙が噴き出そうになる経験を初めてした。
東遊園地の周辺で、明治の痕跡を探したが、あったのは「明治二十一年七月」と刻まれた石の杭のようなものだけだった。
この石の杭のようなものが何を意味するのかは分からなかった。
東遊園地は、今は改修工事中で、中に入れなかったが、ここは神戸市民にとって、神戸の歴史を回顧することが出来る場所だろう。
自分たちが住む町が、どういう歩みを歩んで今に至ったかを知ることは、豊かな精神生活を送る上でも、必要なことのように思う。