高田屋嘉兵衛 後編

 高田屋顕彰館・歴史文化資料館には、高田屋嘉兵衛に関するもの以外の展示品もある。

 寛政五年(1793年)十一月、石巻から江戸に向かう途中に遭難した若宮丸一行16名は、アリューシャン列島の一島に漂着した。

 その地でロシア人に助けられた一行は、シベリアのイルクーツクで7年間を過ごし、その後1803年になって、ロシア帝国の首都ペトログラードでアレクサンドル1世に謁見し、帰国を願い出て許された。

 文化元年(1804年)、一行は遣日使節レザノフと共に長崎に戻った。

 一行は、ペトログラードから航路大西洋、太平洋を横断して日本に戻った。彼らは図らずも、日本の歴史上初めて地球を一周した日本人になった。

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若宮丸一行の帰国への歩み

 日本に戻って来た若宮丸一行から、仙台藩蘭学者大槻玄沢が聞き取りを行い、その内容を「環海異聞」という書物にまとめた。

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「環海異聞」中のロシア皇帝、皇后の肖像

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「環海異聞」中の氷河の中を航海する船の図

 鎖国中の日本人からすれば、若宮丸一行の世界周遊の旅は、驚嘆すべき冒険譚だったことだろう。

 ロシアは、ピョートル大帝の時代にシベリアを征服し、我が国と海を挟んで接するようになった。普段あまり意識していないかもしれないが、ロシアはまぎれもない我が国の隣国である。

 大東亜戦争終戦前後を加えると、我が国は歴史上ロシアと2度戦争している。今後もこの国とは、摩擦や交渉が続くことだろう。

 高田屋嘉兵衛は、アイヌ人と交易を行ったが、アイヌに関する資料も展示してある。

 アイヌの伝統的な衣装、アットゥシは、北海道に自生するオヒョウニレの樹皮の繊維から作った糸で織られた服である。

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アイヌ人の衣装アットゥシ

 アイヌの衣服に施されている意匠は、縄文文化に通ずるものがあるように思う。アイヌ文化は、縄文文化の後継者と言われている。

 縄文文化が、16,000年前から存在したことを思うと、アイヌ文化は現存する世界最古の文化の一つと言っていいだろう。

 館には、和船の模型が展示してあるが、その中の安宅(あたけ)船は、戦国時代から江戸時代初期にかけて建造された戦闘艦である。

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安宅船

 安宅船の船首には大筒(大砲)が設置され、側面の楯板には、鉄砲、弓矢を撃つための狭間(銃眼)がある。楯板は、敵船に乗り移るときは倒されて橋の役目をする。

 徳川三代将軍家光の時代の寛永十二年(1635年)には、江戸湾防衛のため、推定排水量1700トンの安宅丸が建造された。

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安宅丸

 安宅丸には、城大工が築いた天守が設置されていた。船体は銅板で覆われていたが、櫂だけでは重い船を動かすことが困難だったため、普段は深川に繋留されていた。船というよりは、浮かぶ要塞として使われたようだ。

 安宅丸は、我が国始まって以来の巨艦だったが、維持費が膨大なため、天和二年(1682年)に解体された。

 以前神戸海洋博物館の記事で紹介した、イギリスの巨艦ソブリン・オブ・ザ・シーズと同時代に、日本にはこんな船があったのである。

 さて、高田屋嘉兵衛は、ゴローニンの解放後、再び幕府から蝦夷地定雇船頭に任命され、引き続き蝦夷地の開発に携わったが、ゴローニン事件の心労からか、体調が悪くなり、故郷の都志に戻って生活することになった。

 嘉兵衛は、都志の港湾整備なども手掛け、晩年は地元の発展に貢献した。

 文政十年(1827年)、嘉兵衛は生まれ故郷の都志で没する。葬儀は長林寺で行われ、都志本村の茅生の隈に埋葬された。享年59歳である。

 ウェルネスパーク五色の一角に、高田屋嘉兵衛の墓がある。その手前に、平成6年に内閣総理大臣羽田孜が揮毫した高田屋嘉兵衛埋葬地の石碑があった。

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高田屋嘉兵衛埋葬地の石碑

 この石碑の先の階段を下りていくと、嘉兵衛の墓地がある。

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高田屋嘉兵衛の墓

 嘉兵衛の墓の横には、弟の金兵衛の墓がある。

 蝦夷地の開拓に功績を上げ、日露間の紛争を解決に導いた人物の墓にしてはささやかである。

 説明板によれば、この墓石の下に石室があり、石室内の甕の中に、朱に漬けられた嘉兵衛の遺体があるという。

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高田屋嘉兵衛の墓

 嘉兵衛の墓に詣でて、人間が生前に行ったことと人間の死について考えさせられた。人間も生物である以上、死から逃れることは出来ない。赤子として生まれた時から、死へのカウントダウンは始まっている。ヨーロッパの詩人か哲学者が、「人生は緩慢な自殺だ」と言っていたと思うが、それはその通りである。

 論理的に考えてみたら、どうせ死ぬ我が身のために生涯を費やすのは無駄なことである。私は死後の世界を信じないので、死と同時に自分の意識も記憶も消滅すると思っている。となると、死ぬ前の思い出作りも、論理的には無駄なことになる。

 誤解がないように言っておくが、これは「論理的」に考えた場合の答えで、感情的に考えると、自分の人生を自分のために使いたいというのは、人間の自然な気持ちである。これはこれで否定すべきものではない。

 人間は必ず死ぬ。しかし自分の意識が消滅した後にも確実に残るのは、自分以外の生きている人たちである。論理的に考えれば、この人たちのために自分の人生を費やすのが、最も意味のある生き方である。

 嘉兵衛の活躍で、今の北海道がある。そして嘉兵衛の命がけの交渉により、日露間の紛争は回避された。

 嘉兵衛の墓はささやかなものだが、嘉兵衛の生命は、彼の生前の行動の結果、今も人々の間に生き続けていると思った。