天坊山古墳 日岡神社 日岡古墳群

 兵庫県加古川市は古墳が多い場所である。今日も古墳の紹介になる。

 加古川市上荘町小野にある天坊山の山上には、4世紀後半に築かれた円墳がある。これが天坊山古墳である。

 天坊山は、標高163メートルの低山である。登山口も分かりにくい。山の南側の長池に面した側に、登山口がある。

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天坊山登山口

 写真のように、藪に覆われて分かりにくい。少し入ると、獣道のようなものが伸びていて、登山道だと分かる。

 さて、途中道を見失いながらも何とか山上の古墳に達した。直径16メートルの円墳である。とは言え、木々に覆われた円墳なので、ここに古墳があると知らなければ、辿り着いても気づかないだろう。

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天坊山古墳

 天坊山古墳には、2つの竪穴式石室がある。昭和44年に発掘され、刀、剣、槍、鏃などが見つかっている。

 今でも、石室に至る穴が埋まらずに残っている。

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石室の穴

 ここから発掘された遺物は、加古川市総合文化センターに展示している。

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天坊山古墳群出土品

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 それにしても、鉄器が豊富に埋葬されているのに驚く。3世紀までは、鉄器の使用は北部九州に限られていた。4世紀に鉄器が日本中に普及したのだろうが、まだまだ貴重品だったと思われる。

 この古墳に埋葬された人物は、どんな人だったのか、興味は尽きない。応神天皇と同時代の人だろう。

 さて、加古川市加古川町大野にある、日岡神社を訪れる。

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日岡神社神門

 日岡神社は、天伊佐佐比古命を祭神とする。実はこの神社、日本武尊とゆかりのある神社である。

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日岡神社社殿

 第12代景行天皇の皇后播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)が初めて懐妊して皇子を産んだとき、大変な難産で苦しんだ。

 次に皇后が懐妊した時、天伊佐佐比古命が7日7晩祖神に祈った。すると皇后は、無事に大碓命小碓命(後の日本武尊)の双子を産んだとされる。

 この逸話があるため、日岡神社は安産の神様として信仰されている。

 この神社のすぐ隣に、稲日大郎姫の墓とされる日岡御陵がある。稲日大郎姫は、「古事記」では、若建吉備津日古(わかたけきびつひこ)命の娘とされている。

 吉備津日古は、「古事記」では、第7代孝霊天皇の皇子で、播磨から吉備に入り、吉備を平定した人物とされる。

 その娘が播磨にいて、日本中の征服事業に忙しかった景行天皇の皇后となり、この地で日本武尊を産んだとすると、それらしい気もする。

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拝殿

 日岡神社は、天平二年(730年)の創建とされている。景行天皇の御代から相当後の時代である。

 そもそも祭神の天伊佐佐比古命が何者なのかよくわかっていない。

 社殿は鉄筋コンクリート製である。特異な形状をしている。

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本殿

 屋根が幾重にも重なった、波を切り裂いて進む軍艦のような社殿だ。

 日岡神社は、標高59.9メートルの日岡山の中腹にある。日岡山の山頂にあるのが、稲日大郎姫の御陵に比定されている日岡御陵である。

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日岡御陵

 天皇・皇族のお墓である御陵は、宮内庁が管理しており、立ち入り禁止となっている。御陵の中には、大規模な古墳も多いが、発掘調査も許可されていない。

 日岡御陵は、私が史跡巡りで初めて訪れた御陵である。

 稲日大郎姫は、4世紀の人物であると思われる。もし、発掘調査をしたら、「謎の4世紀」を解明する手掛かりが得られるかも知れない。

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 望遠を使って、日岡御陵を拡大すると、古墳の裾に葺石が残っているのが見える。今の日本の古墳で、当時の葺石が残っているものは珍しい。

 日岡御陵は、別名褶墓(ひれはか)と呼ばれている。稲日大郎姫が亡くなった時、日岡山に葬るため、遺体を船に乗せて加古川を渡した。その時つむじ風が起って、船は転覆し、遺体は行方知れずとなった。仕方なく残された褶を御陵に埋めたとされている。この伝説が本当なら、日岡御陵には人骨は埋まっていないことになる。

 日岡御陵の周りには、いくつか古墳があり、日岡山古墳群を構成している。

 日岡山は、公園になっていて、市民の憩いの場所となっている。その中に古墳が点在している。

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南大塚古墳

 ちなみに、「播磨国風土記」によると、日岡山を遠くから見ると、鹿児がうずくまっているように見えるので、この辺りを「鹿児(かこ)」と呼ぶようになったという。加古郡加古川の地名の発祥である。

 日岡山古墳群で最も大きなものは、南大塚古墳である。4世紀の古墳とされ、全長約90メートルである。

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後円部から前方部を見る

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後円部の石室の跡

 南大塚古墳から出土したものは、加古川市総合文化センターにて展示されている。「卑弥呼の鏡」と呼ばれる三角縁神獣鏡が発掘されている。

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三角縁神獣鏡

 「魏志倭人伝」によれば、魏王が卑弥呼に100枚の銅鏡を与えたとされている。かつては三角縁神獣鏡がその鏡だと言われていた。しかし、三角縁神獣鏡は、日本全国の古墳から100枚どころか数百枚出土しており、しかも卑弥呼の時代から約100年後の4世紀の古墳からよく出土する。どうも魏の鏡ではなく、日本国内で大量に複製されたものである可能性が高い。
 南大塚古墳の東側には、4世紀に築造された西車塚古墳がある。

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西車塚古墳

 周濠を控える円墳である。

 南大塚古墳の北側には、4世紀の前方後円墳である西大塚古墳がある。全長74メートルである。

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西大塚古墳

 4世紀は「謎の世紀」と呼ばれるが、4世紀の大王と思われる景行天皇の事績が「播磨国風土記」に多く書かれ、現在の加古川の地にも滞在したと記載されている。その加古川にこのように多くの4世紀の古墳がある。4世紀の加古川流域は、生産力の高い、権力者にとって重要な地だったのだろう。
 「謎の世紀」とされる4世紀の日本は、実はもっと身近に感じることが出来る時代なのかも知れない。