高田屋顕彰館・歴史文化資料館に入ると、職員の案内で、先ず高田屋嘉兵衛の生涯を描いた映像作品の鑑賞を勧められる。
それを観終わってから、館内を見学した。
高田屋嘉兵衛の生涯は、蝦夷地(現在の北海道)の開拓と日露間の紛争解決に費やされた。
寛政十年(1798年)、松前蝦夷地御用取扱を命じられた幕臣近藤重蔵は、国後島、択捉島に渡り、択捉島に「大日本恵土呂府」の標柱を立てた。
当時、ウルップ島、択捉島には、ロシア船が盛んに渡来し、アイヌ人と交易を行うようになっていた。
ロシアの進出に危機感を覚えた幕府は、寛政十一年(1799年)に蝦夷地の東半分を松前藩から取り上げ、直轄地とした。
寛政十年(1798年)の近藤重蔵による国後、択捉の航海は、波にもまれた非常に危険な航海であった。
そこで幕府は、函館で商売をし、航海の技量に優れた高田屋嘉兵衛に、国後、択捉の航路を確定することを命じた。
嘉兵衛は、国後、択捉近海の潮流を調べ、安全な航路を確定した。そして幕府から択捉島開発の命を受けて、官船5隻を建造し、択捉島付近で17箇所の漁場を開発した。このことが、高田屋嘉兵衛が豪商になるきっかけとなった。
嘉兵衛は、享和元年(1801年)には、幕府から蝦夷地定雇船頭を命ぜられ、名字帯刀を許された。
幕府は、蝦夷地の各地に幕臣を派遣して交易や開発に当たらせたが、商人にそれを請け負わせたりもした。
嘉兵衛は、幕府から蝦夷地各地の開発を請け負った。故郷淡路から函館にハマグリ・シジミを移入して養殖したり、函館奉行に協力して大坂・淡路から農家数十戸を函館に移住させて開墾したりした。
当時、内地では菜種、綿花、藍などの商品作物が盛んに栽培されたが、これらの肥料として珍重されたのが、蝦夷地で獲れるニシンから作った魚肥であった。
嘉兵衛は、蝦夷地で生産された魚肥を内地に廻送し、内地からの帰りに衣類、日用品を積んで蝦夷地に戻り、販売した。
嘉兵衛は、利益の半分を、和人、アイヌ人、自己使用人、一般人の区別なく配分した。
そのため、嘉兵衛が開発を請け負った場所には多くの人が集まり、労働力が確保できた。こうして、函館、根室といった町が形成された。
だが、蝦夷地開拓に精力を傾けていた嘉兵衛は、同地を巡る日本とロシアの衝突に巻き込まれることになる。
文化元年(1804年)、ロシア使節レザノフが長崎に来航し、幕府に通商を求めたが拒絶された。
失意のうちにロシアに帰国したレザノフは、武力によって日本に通商を開くことを迫ることとし、ロシア政府の許可を得ずに、文化三、四年(1803~1804年)、部下のフヴォストフとダヴィドフに、樺太と択捉、利尻島の日本人集落や船を襲撃させた。フヴォストフ事件である。
この事件に驚いた幕府は、東北諸藩の兵を蝦夷地に派遣し、ロシア船の打ち払いを命じた。嘉兵衛は、この時東北諸藩の兵員輸送にも貢献した。
文化八年(1811年)、幕府は千島列島の測量調査のため国後島に上陸したロシア船ディアナ号艦長のゴローニンを捕えた。フヴォストフ事件への報復であった。
ゴローニンは、松前に連行され、抑留される。
翌文化九年(1812年)、嘉兵衛は観世丸で択捉から函館に向かう途中、国後島沖でディアナ号に捕らえられる。
ディアナ号副艦長リコルドは、日本人漂流民から、ゴローニンが処刑されたという噂を聞いたため、それが事実かを確かめるために、日本人嘉兵衛を捕えたのである。
嘉兵衛は、カムチャッカ半島ペトロパブロフスクに連行され、抑留される。
捕らえられた嘉兵衛は、落胆せず悠然とした態度を持した。リコルドは、嘉兵衛からゴローニンの無事を確認して安堵したが、一方で嘉兵衛の人柄に心服し、ゴローニン事件の調停を嘉兵衛に任せることにした。
リコルドは、フヴォストフ事件はロシア政府の命令で行われたのではなく、レザノフの独断で行われたもので、ロシア政府に日本への敵意はないことを主張する。
嘉兵衛は、イルクーツクの知事から、フヴォストフ事件はレザノフの独断で行われたもので、ロシア政府は関知していなかったという証書を得られれば、幕府はゴローニンを釈放するだろう、自分は必ず幕府を説得してゴローニンを解放してみせると説いた。
リコルドは嘉兵衛の言を受け入れ、嘉兵衛を国後島にて釈放する。
釈放され松前に赴いた嘉兵衛は、松前奉行に対しロシア側のフヴォストフ事件への陳謝の意向を伝え、函館でゴローニンをロシア側に引き渡すよう要請した。
リコルドは、イルクーツク知事の文書を携え、函館に入港した。
嘉兵衛の奔走により、文化十年(1813年)、ゴローニンは函館でリコルドに引き渡された。
ロシア船ディアナ号乗組員全員は、函館港から離れる際、見送りに来た嘉兵衛に対して敬意を表し、「ウラ―(万歳)大将」を三唱した。
こうして、日本とロシアの間の紛争は解決した。
二年半の間、松前に幽囚されたゴローニンは、その際に見聞した日本人や日本社会の様子を「日本幽囚記」という書物に著した。
「日本幽囚記」の扉表紙には、高田屋嘉兵衛の肖像画が印刷されている。
ゴローニンは、この書物の中で、日本人の聡明、炯眼、誠実、礼儀正しさを称揚し、嘉兵衛を「世の中で最も素晴らしい人物」と評した。
当時のヨーロッパでは、日本人は悪意に満ちた狡猾な民族と見られていた。「日本幽囚記」は、ヨーロッパ各国語に翻訳されて広く読まれ、ヨーロッパ人の日本人観を一変させた。
松前奉行服部貞勝は、ゴローニンを釈放する時に、こう言ったという。
各国それぞれが相異なる固有の習慣を有しているが、真に正しき事は、いずれの国においても正しきものと認められる。
この松前奉行の言葉は、「日本幽囚記」の中でも引用され、この書を読んだドイツの詩人ハイネも自作の中で引用しているという。
国や民族によって言葉や文化や習慣が異なるのは当然である。だが時に人間達は、自分たちと異質な文化を持つ共同体に対して敵意や猜疑心や警戒心を抱く。
これは、共同体を守るために人間が取る自然な態度であるが、これが原因で人間同士に争いが生じるのは、歴史の上で証明されている。
当時の松前奉行がこんな普遍的な優れた見識を持っていたことに驚かされるが、彼が言った「真に正しき事」とは何だろう。当時の日本とロシアには民主主義はなかったから、民主的な考えを述べたのではないだろう。
恐らく、文化や習慣や言葉を越える人類普遍の感情について述べたのだろう。ある国の為政者個人の感情ではない人類普遍の感情を。
人間同士の争いを止めることは困難だが、国境を越えて人類普遍の感情を尊重できるような、公正でなおかつ法的な担保のある制度が出来て、それが世代を超えて継承されるようになれば、人間同士の争いは多少なりとも減っていくのではないかと思われる。