山門を潜ると、すぐ右手に三重塔がある。
私が史跡巡りで訪れた23番目の三重塔である。淡路では初めて見た三重塔である。恐らく淡路唯一の三重塔だろう。
この三重塔は、文化十年(1813年)に高田屋嘉兵衛らの尽力により再建されたものである。
1階屋根は瓦葺ながら、2,3階は銅板葺という建物だ。
古びた石段を登ると、初層東側の扉が開いており、網越しに中に祀られている大日如来坐像を拝見することが出来た。
智拳印を結んでいるので、金剛界の大日如来坐像である。柱や台座の色彩が剥落しているが、創建時は鮮やかな色彩に彩られていたことだろう。
ここで大日如来の真言を唱えた。「オン アビラウンケン バザラダトバン」。
さて、この三重塔の尾垂木の上には、獅子や邪鬼の彫刻が置かれて軒の重さを支えている。
初層の四隅の彫刻は間近で見ることが出来る。
二層目にも邪鬼はいるが、我がRX100の貧弱な望遠性能のため、1体しか写真に収めることが出来なかった。
三重塔をぐるりと眺めて、次に本堂に参拝する。
本堂の前には、猪の石像一対が置かれている。
延喜元年(901年)、播磨国の猟師忠太が、播州の山で為篠(いざさ)王という白い猪に矢を射かけた。
為篠王は、矢が刺さったまま海を渡り、先山の大杉の洞に逃げ込んだ。
海を渡って追いかけた忠太が洞に入ると、そこに胸に矢を受けた千手観音像があったという。
忠太は悔い改め、出家して寂忍と称した。そして、千手観音像を祀るため、千光寺を建てた。
本堂前の猪の石像は、その寺の縁起に因んで置かれたものだ。
本堂では、法要が行われていて、参会者が揃って十三仏の真言を唱えていた。
本堂奥に祀られている千手観音像は、どう見ても延喜元年のものではなく、新しい像である。伝説の真相はどうあれ、猟師が殺生を悔やんで出家したというのは、あり得る話だ。
本堂の西側には金毘羅大権現が祀られた祠がある。その側に金毘羅大権現の石像があった。
金毘羅様は、航海の神様である。海に囲まれた淡路島の人々にとっては、馴染みのある神様だろう。
ところで、千光寺だけでなく淡路の山岳寺院では、団子転がしという風習がある。
35日供養の時に、遺族がおにぎりを山上から投げるという風習である。米が高価な時代には、団子を投げていたそうだ。
日本の古い民間信仰では、死者の霊は山に行くと言われている。死者の霊が山に行くのを邪魔する悪霊の気を引くため、遺族が食べ物を投げたというのが起源だとされている。
いつしか、その習俗が仏教に取り入れられ、35日法要で死者が閻魔大王の審判を受ける際、餓鬼に食べ物を施して功徳を積み、死者の立場が良くなることを願うようになったようだ。
千光寺の六角堂には、閻魔大王と六地蔵が祀られている。35日法要で山におにぎりを投げた遺族は、六角堂で閻魔大王と六地蔵におにぎりを捧げるという。
お盆の墓参りもそうだが、日本では、元々仏教と何の関係もない民間習俗が、仏教に取り入れられている例が多い。
明治以後、仏教思想を純粋な哲学的思惟として見る学者たちは、そのような民間習俗を「仏教ではない」と忌み嫌った。
私は、仏教の思想と関係がない習俗でも、それで人々の気持ちが安らぐのならば、それはそれでいいではないかと思う。
最近、五来重(ごらいしげる)という、仏教民俗学を確立した昭和の学者の著作に興味を覚え始めている。
五来は、本来の仏教思想である釈迦の覚りと無関係の、死者の供養といった日本の民間習俗を生涯を賭けて研究し続けた学者である。いつか当ブログでも、五来重の著作の内容を紹介できる時が来るだろう。
境内には、鐘楼があるが、ここにかかる梵鐘は、弘安六年(1283年)の銘のある淡路島最古の梵鐘である。
この梵鐘は、室町時代に売り払われたらしいが、炬口城主安宅秀興の手で買い戻されたそうだ。
今の仏教は、葬儀や法要しかしない葬式仏教と揶揄されているが、それはそれで民衆が寺院に求めている機能の一つである。それだけでなく、信徒に教えを伝える活動を地道に続けている寺院も多い。
私たちの方も、寺院にもっと親しみを感じて、仏事以外の時でも気軽に足を運んでもいいのではないかと思う。