西宮砲台 

 西宮市教育文化センターから西に歩き、夙川を越えると、昔香櫨園(こうろえん)と呼ばれていた一帯に出る。

香櫨園の辺り

 香櫨園は、明治40年に開園した娯楽施設の名である。博物館、動物園、グラウンド、奏楽堂、宿泊施設、ウォーターシュートなどがあった。

 その名は、創業者香野蔵治と櫨山慶次郎の名前から取られた。

 阪神電鉄も、集客を見込んで、近くに香櫨園駅を設置したが、香櫨園は開園から僅か6年後の大正2年に廃園となった。

 その跡地は今のような住宅地になった。

 それにしても、明治時代にそんな娯楽施設があったとは、驚きである。

 ここから東に行き、西宮市西波止町にある国指定史跡、西宮砲台に赴いた。

 西宮砲台は、御前浜という砂浜にある。

御前浜

 この海岸が御前浜と呼ばれるようになったのは、かつて神功皇后がこの辺りに上陸したからとか、広田神社摂社の濱の南宮の前にある浜だからとか、様々な説がある。

 この御前浜の奥に、文久三年(1863年)に建設が始まり、慶応二年(1866年)に完成した西宮砲台がある。

西宮砲台

 西宮砲台は、幕末に外国船からの侵略に備えるために建設された。

 嘉永六年(1853年)のアメリカ・ペリー艦隊の来航、嘉永七年(1854年)のロシア・プチャーチン艦隊の大坂湾進入などを経験した幕府は、海防の必要性を悟り、大坂湾岸に砲台を築くことにした。

 文久三年(1863年)に、老中小笠原長行軍艦奉行勝海舟が摂津を巡視し、和田岬湊川、西宮、天保山に台場を築くことに決定した。

西宮砲台

 西宮砲台は砂地に建てられた。松杭を大量に打ち込んで基盤を固め、その上に瀬戸内海の島々から採掘した花崗岩を積んで、外側を漆喰で塗り固めた。

 かつて江戸時代初期に大坂城の石垣に使われた瀬戸内海の花崗岩が、今度は砲台の建築に使われたわけだ。

西宮砲台の内部

 西宮砲台は、周囲をフェンスで囲まれているが、かなり近くから見学することが出来る。

 近づいてみると、第一次世界大戦第二次世界大戦のトーチカのようにも見える。西宮砲台は、西洋の海防施設マルテロ・タワーをモデルにしている。

 円筒形の石堡塔を、土塁の外郭で囲んで防御しているのが、その特徴である。

西宮砲台の鳥瞰図

 円筒形は、敵艦からの砲弾を弾くための形であろう。

 全国に築かれた約1,000の台場の内、西洋式の砲台は、和田岬砲台湊川砲台、西宮砲台、今津砲台の四台だけで、現存するのは、和田岬砲台と西宮砲台のみである。

 和田岬砲台三菱重工業の敷地内にあって自由に見学できないことを思えば、これだけ近づいて見学できる西宮砲台の存在は貴重である。

西宮砲台

 西宮砲台は、完成後大砲を試射したが、煙が内部に充満して使えなかったという。

 明治17年には、内部が焼損してしまった。昭和47年に修復工事が為され、内部が鉄骨で補強された。

 西宮砲台の石堡塔の周囲には、外郭と外郭石材が残っている。

 西側には、土塁のような形をした外郭が残っている。

外郭

外郭内側

 外郭の外側に立つと、外郭の外側に石塁が残っているのが分かる。

外郭の外側の石塁

 石堡塔の南側には、外郭石材が点々と残っている。かつてはこの上にも外郭があったのだろう。

 外郭は、敵の砲弾から石堡塔を守るための設備であろう。

外郭石材

 石堡塔の北側にある堤防の上に登ると、北東にある西波止公園に残る外郭石材が見下せる。

西波止公園の外郭石材

 西波止公園は、扇形をしているが、かつてはここにも外郭があったのだろう。

 西宮砲台は、幕末の国防のための施設である。

 私は、国家にとって大事なものは、先ず国防、次に治安、次に経済と考えている。

 国防とは、国が外敵に占領されないための備えである。

 もし我が国が外国に占領されたら、我が国の国民は、自分達のことを自分自身で決められなくなる。つまり自由と独立が失われる。

史跡西宮砲台の石碑

 自衛のための戦争すら否定する人もいる。確かに、命を失うくらいなら、人の言いなりになってでも生きた方がましだという考え方もあるだろう。

 だが、人の言いなりになって生きるくらいなら、命を失うかも知れないが、戦う方がましだと思う人もいる。

 私は、自尊心のために戦う人たちの方を尊敬する。

 国の自由と独立が保持され、治安が維持された上で、初めて安心して経済活動を行うことが出来る。人は豊かで平和な生活を享受出来る。

 我々が普段豊かで平和な生活を享受できているのが何故なのか、思いを至らす必要がある。

 国防のことは、実は自分達の生活に直結しているのである。