大龍寺の参拝を終えて、スイフトスポーツを駆り、再度山北側の再度公園に赴いた。
再度公園は、昭和12年に開設された公園で、六甲山の峰を越えた北側にある。地名では、神戸市北区山田町下谷上になる。
この一帯は、かつて空海が入唐前と帰朝後に訪れて、修法をした地であるとの伝承から、修法ヶ原(しおがはら)と呼ばれている。
修法ヶ原池という池を中心に、公園が整備されている。
山上の修法ヶ原池は、真冬には凍結することがあるという。
私には昔から、こうした山中の湖や池の畔に別荘を建てて隠棲したいという夢がある。現実の生活を考えれば、町中に住んだ方がよほど楽なのだろうが。
修法ヶ原池から北に歩くと、弘法大師空海が修法を行ったという伝承地がある。
「弘法大師修法之地」と刻んだ石碑のあるところを西に歩いていくと、コンクリート製の小さなお堂が見えてくる。
空海は、延暦二十三年(804年)に遣唐使船に乗って唐に渡ったが、伝説ではその前にこの地を訪れ、航海の無事と仏法修得を祈願したという。
そして、唐で真言密教の奥義を窮めて帰朝した後、この地を再度訪れ、無魔成満の御礼参りを行ったという。
それからこの地は空海修法の地として修法ヶ原と呼ばれるようになった。
弘法大師を祀るお堂の横には、真言宗寺院に必ずある鎮守のお稲荷さんがあった。ここにも手を合わせた。
それにしても、空海はなぜ入唐求法の成就の祈願をこの地でしたのだろう。
和気清麻呂が創建した大龍寺が、唐への航路を見下ろす地にあったからだろうか。それとも別に理由があったのだろうか。
再度公園の中を北に歩くと、外国人墓地に突き当たる。
慶応四年(1868年)一月一日に開港した神戸港には、外国人居留地が出来た。
開港後、神戸に住む外国人を埋葬する墓地が、旧生田川尻東側の小野浜に出来たが、明治31年に小野浜墓地が手狭になり、春日野に新しい墓地が出来た。
神戸の発展に伴い、昭和5年には、外国人墓地を郊外に移転することが決まった。
昭和13年の阪神大水害や、大東亜戦争のおかげで移転作業は遅れたが、昭和27年に小野浜墓地から墓石666基、歴史的記念碑、樹木がこの地に移転され、昭和35年には春日野墓地から墓石1,406基が移転された。
墓地内には、神戸市の許可がないと立ち入ることが出来ない。
だが、一般に公開されている展望台から墓地を見下ろすことは出来る。
外国人墓地には、神戸港開港以来、日本にやってきた外国人や日本人妻など約2,900名が埋葬されている。
私は死後の自分の遺体の処置にあまり関心がないが、それでも死ぬなら日本で死にたいと思う。
ここに埋葬された外国の方々は、日本を終焉の地に選ぶほど、この国に思い入れがあったのだろうか。
展望台にはキリスト教の教会がある。
また第一次世界大戦に際して、兵士として神戸から出征した英仏の若者を慰霊する勇士の慰霊塔がある。
ここに名前が刻まれた若者達は、ヨーロッパ大陸で戦死したことだろう。
展望台からは、遠く神戸市北区の鈴蘭台の街並みが見える。
今では裏六甲も開発が進み、住宅地が出来ているが、弘法大師空海が修法した時代は、原生林がひたすら続く未開の地だったことだろう。
山での修行を好んだ空海は、畿内の山林を歩き、この地に来て何か感ずるものがあったのではないか。
今はただただ静かな場所である。遠い外国から日本に来て亡くなった人たちが眠りにつくには相応しい地だと感じる。