神戸海洋博物館の中には、神戸市中央区に本社を置く川崎重工業の企業博物館であるカワサキワールドがある。
ここでは、川崎重工業が製造した製品がパネルや模型、更には製品の実物などで紹介され、戦後川崎重工業が販売した二輪車の実車が展示されている。
川崎重工業は、船舶、航空機、ヘリコプター、鉄道車両、オートバイ、精密機械、環境プラントなど、様々なものを製造する日本を代表する企業の一つである。
ここを見学して、川崎重工が驚嘆すべき企業であるとの認識を新たにした。
現在の川崎重工業のルーツとなる川崎造船所を創業したのは、薩摩出身の商人、川崎正蔵である。
天保八年(1837年)に薩摩の商家に生まれた正蔵は、27歳で大阪で回漕業を創業したが、持ち船の遭難によって失敗し、西洋型船舶の必要性を痛感して、近代造船業に強い関心を持つようになった。
正蔵は、明治11年に東京築地にて川崎築地造船所を開設し、明治14年には神戸にも川崎兵庫造船所を開設した。
明治19年には、築地造船所を兵庫造船所に集約した。これが、現在の川崎重工業神戸工場である。
正蔵には跡継ぎとなる子がいなかったが、薩摩藩出身の盟友松方正義の子・松方幸次郎を跡継ぎとし、明治29年に松方を初代社長として株式会社川崎造船所が発足した。
明治35年には、川崎造船所神戸工場に第一乾ドックが完成した。
明治39年には、アメリカから技術を導入し、国産初の潜水艇を建造した。
川崎重工業神戸工場では、現在でも海上自衛隊の潜水艦を建造している。神戸市兵庫区には、同じく潜水艦を建造している三菱重工業神戸造船所がある。
潜水艦は、現代戦では極めて重要な兵器である。その潜水艦を建造する工場が2つある神戸は、我が国の安全保障上実に重要な場所なのである。
明治39年には鉄道車両製造事業に進出し、神戸市東尻池村に鉄道車両工場を建設した。現在の川崎重工業兵庫工場である。
大正4年には、国産初の巡洋戦艦金剛級の三番艦、榛名を建造する。
大正6年には製鉄事業に参入。
松方社長は、第一次世界大戦での飛行機の活躍に着目し、大正7年には航空機事業と自動車事業に参入する。
今川崎重工業は、オートバイの製造で有名だが、四輪車は作っていない。日本では、四輪車を造るメーカーが、人口に膾炙している。
川崎重工業は、飛行機事業に専念するため自動車事業を止めたが、もしそのまま自動車を作り続けていたら、どんな車を造ったか興味深いところだ。
昭和元年には、我が国初の全金属製飛行機、川崎ドルニエ重爆撃機を製造。
川崎造船所は、鉄鋼構造物の事業にも参画していたが、大正12年の関東大震災の後、復興のため25もの鉄橋を建造した。
昭和元年には、その内の一つの東京墨田川かかる永代橋を建造する。
永代橋は、高張力鋼を使用した我が国初の橋梁らしい。
昭和9年には、満州の大連ー新京間を結ぶ当時世界屈指の新鋭蒸気機関車、超特急あじあ号を製造する。
昭和16年には、真珠湾攻撃を始め、大東亜戦争初戦に活躍した空母瑞鶴を建造する。
空母瑞鶴は、川崎重工業が初めて建造した空母であった。
同じ昭和16年には、我が国初の水冷式エンジンを搭載した航空機である、戦闘機飛燕を開発製造した。
飛燕は、陸軍が使用した戦闘機である。
紡錘状の機体が格好いい。
昭和18年には、我が国初の純国産ジェットエンジン搭載機、ネー0の試験飛行に成功する。
ここまで駆け足で戦前戦中までの川崎重工業が製造した製品を紹介したが、これだけでもこの会社が我が国の隆盛にいかに関与してきたかが分かる。
戦後、川崎重工業は、更に多彩で重厚な製品を造り、技術立国日本を支える企業の一つになる。