村岡陣屋跡

 昨日の記事で書いたように、兵庫県美方郡香美町村岡区村岡は、江戸時代に交代寄合旗本の山名家が領有し、陣屋を置いた場所である。

 その陣屋は、今は跡形もないが、かつて陣屋があった御殿山は、公園として整備されている。

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御殿山公園への登り口

 御殿山公園には、車で上がることが出来、公園には駐車場もあるが、登り口が軽四1台がようやく通れるくらいの狭さだったので、麓の駐車場に車を置いて、歩いて上がることにした。

 麓から500メートルほど上がると、公園に至る。

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公園の入口

 公園の入口は、陣屋を意識して建てられたと思われる、白壁瓦葺の塀と陣屋門で区切られている。

 村岡を領した山名家は、清和源氏の新田氏の流れをくむ武家で、室町時代には11ヶ国の守護となった大大名である。応仁の乱で西軍を率いた守護大名山名持豊(宗全)が有名である。

 しかし戦国時代を通してどんどん勢力が衰え、天正十年(1582年)に因幡に侵攻してきた秀吉に、山名豊国が家臣の反対を押し切って降伏したために、大名としての山名家は絶えた。

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御殿山公園

 一度野に下った豊国は、関ヶ原の合戦で、東軍の亀井茲矩(これのり)の下で参戦した。その功績が家康に認められ、豊国は但馬国七美郡6,700石を与えられた。

 山名家が名門であるというだけでなく、山名家の祖先が、徳川家と同じ清和源氏新田氏だったのが、家康の優遇の理由だったようだ。

 しかし、江戸時代のルールでは、1万石以下の領地では立藩できず、大名にもなれず、城も持てない。

 山名家は江戸時代を通じて、藩主ではなく、あくまで交代寄合という、地方に領地を持って江戸に参勤交代をする旗本であった。

 初代豊国、2代豊政は江戸にあって領地には入らず、陣屋を兎束村(現香美町村岡区福岡)に置いて、家従を滞在させて執務に当たらせた。

 寛永十九年(1642年)、3代矩豊(のりとよ)の時に、陣屋を黒野村に移し、黒野村を佳名の村岡に改めた。また領主が村岡の陣屋に住むようになった。村岡で最初に陣屋が置かれた場所は、現在村岡民俗資料館「まほろば」が建つ場所だという。

 そして文化三年(1804年)に8代義方が、尾白山(現御殿山)に陣屋を移し、明治7年まで陣屋が置かれた。

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陣屋跡に建つ旧村岡藩資料館

 義方が陣屋を建てたあたりには、現在は旧村岡藩資料館が建っている。この資料館は、今は閉館しているようだ。

 第11代義済の慶応四年(1868年)に、山名家の所領は1万1千石と認められた。ついに山名家は藩主を名乗れるようになった。村岡藩の誕生だ。

 しかし慶応四年は明治元年であり、藩は無くなる運命にあった。明治2年の版籍奉還で義済は藩知事になり、明治4年の廃藩置県で村岡藩は村岡県になり、更に豊岡県と合併した。藩主山名家は所領を失ったが、男爵となって皇室の藩屏たる華族となった。

 明治7年には、村岡藩陣屋は取り壊された。

 旧村岡藩資料館の前には、第11代義済、第12代男爵義路、第13代男爵義鶴の墓のある御殿山桜山御廟がある。

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御殿山桜山御廟

 中央の墓石が義済のもので、向かって右が義路、左が義鶴のものである。

 山名義鶴は、大正昭和に社会運動家として活躍した人で、その跡を娘京子に婿入りした養子の晴彦が継いだ。

 山名晴彦は、越前丸岡藩最後の藩主有馬道純の長男だった子爵純文の子である。

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義鶴、晴彦の墓誌

 御廟の脇にある墓誌によると、山名晴彦は平成20年4月28日に卒した。防衛庁自衛隊)一佐(旧軍の大佐相当)の経歴をお持ちだったらしい。

 この晴彦の死去により、山名宗家は途絶えたようだ。

 桜山御廟から山を下ると、陣屋の奥方部屋がある。

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陣屋奥方部屋

 江戸時代には、幕府は全国の藩主の妻子を江戸に住まわせて、半ば人質のようにしていたが、文久三年(1863年)の武家諸法度で、「妻子の帰国は勝手とする」として、各藩主の妻子の帰国を許した。幕末には幕府の力が弱まり、藩の統制を緩めざるを得なくなったのだろう。

 これは、第11代義済の奥方が帰国するに際し、奥方の住まいとして陣屋に増築された奥方部屋である。

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奥方部屋内部

 明治7年の陣屋取り壊しに際して、蚕糸問屋の池尾家がこの奥方部屋を買い取り、離れとして使用していたが、平成2年に池尾家から旧村岡町に寄贈され、陣屋跡に戻されたそうだ。

 村岡陣屋の建物の中で唯一現存するのが、この奥方部屋になる。

 さて、御殿山から東に約100メートル歩くと、第3代矩豊から第10代義問までの墓のある壷渓(つぼたに)御廟がある。

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壷渓御廟への登り道

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壷渓御廟

 領主として初めて村岡に住んだ3代矩豊の墓石は、向かって最も右側にあった。

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3代矩豊公の墓石

 矩豊の没年は、元禄十一年(1698年)だが、墓石には没年の「元禄十一戊寅年」の文字が刻まれていた。

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矩豊公墓石の「元禄十一戊寅年」の文字

 それにしても、こんな古い墓石に刻まれた文字を好んで読むなど、まるで森鷗外みたいだと一人で苦笑した。

 歴代山名家の菩提寺となっているのが、村岡にある東林山法雲寺である。天台宗の寺院だ。

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東林山法雲寺

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法雲寺本堂

 かつての大大名山名家の子孫達は、全国山名氏一族会という会を結成して親睦を深めているそうだが、法雲寺にはこの会の事務局がある。
 平成20年に会の総裁をしていた山名晴彦が死去して、会は休眠状態となったが、今は備後山名家の当主の山名年浩氏を総裁にして活動を再開しているらしい。
 境内には、第13代当主で社会運動家になり、戦後政治の中で一定の存在感を示した民主社会党(後の民社党)の創設に携わった山名義鶴の石碑があった。

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山名義鶴の石碑

 「歴史を書くことよりも歴史をつくることに興味を覚える」とある。それにしても、大名家の血筋で華族でもあった人が、労働運動に身を投じたというのは面白いことだ。 

 法雲寺には、村岡山名家に伝わる品々を管理展示する山名蔵なる建物があるが、今は新型コロナの影響もあり、閉館していた。

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山名蔵

 山名蔵には、山名家が2代将軍秀忠から拝領した膳具一式や、3代矩豊の写経、歴代当主が愛用した武具などが収蔵されている。

 また法雲寺には、山名氏の始祖で、源頼朝に仕えた山名義範公以下歴代の位牌が祀られている。

 偶然かも知れないが、一時山名氏のライバルだった播磨の赤松氏の菩提寺も法雲寺という。こちらは兵庫県赤穂郡上郡町にある。

 但馬は山名家の文化圏だが、今回の但馬の旅の最後に、山名家の歴史を辿ることが出来た。

 ある一族の歴史を辿っていくというのも、血統から来るドラマを感じることが出来て面白い。