11月14日に、今年の夏以来の美作の旅をした。
最初に訪れたのは、岡山県津山市荒神山にある荒神山城跡である。
荒神山は、標高約298メートルの低山である。
荒神山城跡へは、麓の集落から登って行くことになる。
舗装された道を歩くと、すぐに山道に入る。
荒神山城は、元亀元年(1570年)に、宇喜多直家麾下の花房職秀(もとひで)が築城した。
僅か25年後の文禄四年(1595年)には廃城となった。それ以降、城としては使用されていない。
残っている遺構は、いずれも約430年前のものである。
登山の途中に見上げれば、平らな山頂付近が見える。二の丸の曲輪であろう。
更に進むと石垣が見えてくる。
山城に石垣が登場するのは、概ね1590年代のことだから、廃城直前に改修された際の石垣だろう。
また人工的に土地を削って造った切通しがある。
土城の跡は、自然の造形の中に何気なく人工の造形が隠されている。それを見つけながら歩くのが、山城探訪の楽しさだ。
登山道を歩くと、途中T字路に突き当たる。そこを左に進むと、本丸方面である。
進んで行くと、井戸の跡があった。
見逃してしまいそうになるが、山城で最も重要なのは井戸である。
籠城戦となった時、城内に水が無ければ城兵はたちどころに窮乏することになる。山上で水を得ようと思えば、井戸を掘るしかない。
簡単に敵兵の手に落ちないよう、結構な山上に井戸が掘られる。山城跡には、必ずどこかに井戸跡がある。
井戸跡から進むと、枡形虎口がある。虎口は、城の主郭の出入口に当る。
枡形虎口には、かつて石塁があり、瓦葺の門が建っていたのだろう。瓦や石が転がっていた。
枡形虎口から入り、西側に行くと、土塁に囲まれた曲輪がある。
丁度この曲輪の辺りを散策していると、本丸方面から草刈り機を持った地元の方たちが下りて来られた。
「どちらからお出でですか」と声を掛けられたので、「兵庫県です」と答えた。地元の方たちの丁寧な手入れで、城跡の魅力が増すのだろう。
本丸跡は、結構高い切岸の上にある。
本丸跡の曲輪は、一般的な庭付き一軒家の敷地くらいの広さである。「荒神山城跡」と書かれた木柱が根元から折れて、近くの木に立て掛けられていた。
荒神山城跡は、旧出雲往来を見下ろす要衝である。
備前から美作に攻め上がった宇喜多氏が、新たに取得した領地の要衝を選んで、城を築いて支配を固めていったのが実感できる。
本丸跡の大きな石の上に、本丸から見つかった瓦が集められていた。
軒丸瓦もある。結構立派な瓦葺きの建物が建っていたのだと思われる。
荒神山城跡から下りて、県道449号線を西に行った津山市種に、後醍醐天皇駐輦場跡の石碑がある。
元弘二年(1332年)、鎌倉幕府打倒の計画に失敗した後醍醐天皇は、幕府の兵士に護衛されて、隠岐の島に配流されることになった。
その際、今の姫路から出雲往来を通り、この地に駐輦して歌を詠んだという。
この道の先にある佐良山は、「古今和歌集」にも詠まれた歌枕であった。
後醍醐天皇は、「聞きおきし 久米のさら山 越えゆかん 道とはかねて 思ひやはせし」と詠った。
かねてから聞いていた久米の佐良山を越える道を、自分が行く事になろうとは、思いもしなかった、という歌意である。
この石碑は、大正15年に地元の人が後醍醐天皇を偲んで駐輦場跡に建てた石碑である。
隠岐に流される後醍醐天皇を奪還しようと、児島高徳が後を追った話は今まで何度か紹介してきた。
明治大正期には、「太平記」の時代が人々に親しまれた。武家から政権を取り戻し、天皇親政を復活させようとした戦いの時代は、言わば日本第二の建国神話として親しまれたのだろう。
では明治の王政復古は、日本第三の建国神話の時代として、後世振り返られることになるのだろうか。
その可能性は低いと思うが、天皇親政という考えが歴史上何度も復活してきたのは、それが日本の古層を流れる地下水脈のようなものであるからだろうと考えられる。