石造灯籠の背後には、本尊の薬師瑠璃光如来を祀る薬師堂(本堂)がある。
薬師堂は、宝形造り、瓦葺、桁行五間、梁間五間の建物である。
清薗寺の開創に関する寺伝はこうである。
第31代用明天皇の御代(585~587年)に、丹後国与謝郡の大江山に鬼人がいて、人々を脅かしていた。
用明天皇は、第三皇子の麻呂子親王に1万の兵を預け、鬼子討伐に派遣した。
しかし鬼子は隠現自在で、空を翔け雲を起こして幻惑し、人力では如何ともし難かった。
麻呂子皇子は、この上は神仏の加護に頼るほかなしと、元より厚く信仰し守り本尊としていた薬師瑠璃光如来の像七体を自ら刻み、丹誠を込めて祈念し、これを兜に納めて進軍した。
薬師瑠璃光如来の御加護のおかげか、麻呂子皇子は無事に鬼子を退治することができた。
麻呂子皇子は、鬼子退治の後、七体の薬師瑠璃光如来を祀るため、近辺に七つの寺院を建立した。
その一つが鎌倉山清薗寺であるという。薬師堂には、七体の薬師瑠璃光如来像の内の一体を祀っている。
薬師堂の手前二間は外陣、奥三間は内陣になっている。
外陣正面には、貞享五年(1688年)に竹田三ヶ村を願主として奉納された、麻呂子皇子鬼退治の絵馬が掛けられているが、その手前に人天蓋があって拝観することは出来なかった。
薬師堂の横には、御神木の清薗寺の大杉がある。
この大杉は、長年薬師堂を落雷から守り続けてきた。この50年の間に3度の落雷を受けたので、30メートルあった樹高が23メートルまで縮まり、内部も空洞になったが、治療を受けて今も立ち続けている。
昭和28年には薬師堂の屋根葺き替え工事の財源として一度売却されたが、大杉の伐採を惜しんだ地元の有志により買い戻された。
おかげで大杉は今も薬師堂を見守るように聳えている。
清薗寺には、最盛時には4つの塔頭があったが、現存するのは親王院一院のみである。
親王院の本坊持仏堂は、文化四年(1807年)の建立であるが、持仏堂の前には築山式枯山水形式の庭園がある。同時期の作庭であろう。
庭園の背景には、高谷山が見える。この庭園は、高谷山を借景として作庭されている。
石の表情が面白く、眺めていて飽きが来ない。
大江山の鬼退治や吉備の鬼退治の説話もそうだが、畿内から少し離れた地域には、朝廷による鬼退治の説話が残っている。
朝廷の支配に服さない化外の民の抵抗が、鬼退治説話になっていったのであろう。
鬼には鬼の歴史があったろうが、それは抹消されてしまい残っていない。
庭園を眺めながら、鬼に限らず、名もなく歴史の波の中に消えてしまった人々のことを思った。