三角山神社奥宮本殿の参拝を終えて下山し、三角山と景石城跡のある城山との分岐点のある中鳥居に戻った。
そこから北上し、景石城跡を目指した。
尾根道を進んで行く。三角山と城山の中間地点には、子持ち松砦跡がある。
子持ち松の名称は、小字名から来ているという。子持ち松砦跡は、景石城跡のある城山山頂と同じくらいの標高にある。
景石城跡の南約400メートルに位置しており、景石城防衛の拠点だったと思われる。
子持ち松砦跡の北側には、竪堀の跡がある。
子持ち松砦跡の周辺には、このような竪堀や堀切の跡があり、なかなか厳重な防御機構を備えていた。
ここを過ぎてしばらくすると、三角山と同じく、山肌から所々花崗岩が露出する登山路になる。
急な上り路を登攀することになるところには、ロープが設置されている。息を切らしながら登ると、石垣が見えてくる。
景石城は、南北朝時代に地元国人の用瀬氏が築城したとされている。
「太平記」巻三十五によれば、播磨の赤松貞世、赤松則祐が、延文五年(1360年)に因幡に侵攻し、景石城を手中に収めたとある。
その後山名氏が奪還し、戦国時代には用瀬氏の居城となった。
天正八年(1580年)、秀吉の因幡攻めの際に景石城は陥落する。用瀬氏が退去した後、秀吉配下の磯部兵部大輔豊直が入城する。
磯部氏は、約20年間この地を治め、用瀬の城下町を形成した。
今ある石垣も、磯部氏が築いたものだろう。
二の丸は、崩れかけているが、石垣で囲われ、今はその上に東屋が建っている。そこから、用瀬の城下町が見下ろせる。
靄がかかっているが、もうすぐ雨が上がりそうな気配であった。
二の丸に隣接して本丸跡がある。本丸跡は、裾に石垣がある小高い丘である。
本丸跡の上に上がると、細密な苔の絨毯に覆われた空間が広がる。
本丸跡の上に立って、遥か北を望むと、台形状の霊石山が見えた。霊石山から更に北を望めば、日本海が見えることだろう。
景石城跡のある城山は、標高約325メートルである。山頂の三角点には、旧字で「三角點」と刻まれている。古くからある三角点なのだろう。
慶長五年(1600年)、関ケ原の合戦で磯部氏が改易されると、景石城は、若桜城主山崎家盛の出城となった。
景石城は、慶長二十年(1615年)に幕府から出された一国一城令により廃城となった。
本丸跡には、磐座のような巨石があった。三角山山頂を思わせる巨石だ。
景石城が廃城となってから400年過ぎた。最初に築城されてからなら660年は経っているだろう。
その当時から、この巨石はここにあったことと思われる。用瀬氏や赤松氏、山名氏、磯部氏、山崎氏とその配下の将兵は、皆この巨石を目にしたことだろう。
私と同じ景色を、これら武士たちが見たと思うと、それらの人々のことが時空を超えて身近に感じられる。
遥か昔の人々が生きた世界も、私たちが住む世界と薄皮一枚隔てたところに今もあるような気がする。