中鳥居を潜れば、そこからは三角山神社奥宮の結界である。
登山道も急になり、巨石が目につき始める。
女人堂から山頂までの行程の2/3のあたりには、かつて修験行者が雨露をしのぐために建てた籠り堂の跡である、仙行者(せんのぎょうじゃ)という空き地がある。
ここは、今は木々に覆われているが、城跡であれば櫓が建てられたであろうような、見晴らしの良い台地であった。
更に進むと、いよいよ山頂に近づく。他の山への道を示す標識のある所に来た。
三角山の南には、標高約648メートルのおおなる山、その南には標高約736メートルの洗足山が続き、用瀬山系を形成している。
歩きがいのあるハイキングコースである。
三角山山頂付近には、巨石がごろごろ転がっており、鎖に頼って登らなければならない場所もある。
修験行者の気分になる。
日本には古くから巨石信仰がある。人々にとって山上にある巨石は、畏れ敬う存在であった。
巨石のある山や、岩壁が露出した山は、古くから信仰されてきたが、それがいつしか修験道の行場になっていった。
修験道にとって、山地が7割を占める日本列島全体が、行場のようなものだろう。
さて、山頂付近にようやく至る。鳥居が見えてくるが、その先が奥宮の神域である。
この鳥居の先には、ちょっとした船ぐらいの大きさのある巨石が五つあり、その巨石の上に三角山神社の奥宮本殿が祀られている。
巨石は、それぞれ景石、重石、富士石、天狗石、万燈石と呼ばれている。
さすがにこれらの石が、人為的にここに運ばれたということはなさそうである。
山頂の巨石は、花崗岩とは異なる硬そうな岩石である。
三角山は山体自体が花崗岩で出来ている。花崗岩は寒暖差による岩の収縮により内部に罅が出来、割れて崩れていく。
崩れた花崗岩は、小さくなって最終的に真砂土になる。白砂の海岸の砂も、もとは花崗岩である。
山頂付近の花崗岩の塊が、年月の経過により風化して割れて崩れ、花崗岩と異なる硬い巨石群が山頂に残ったのだろう。三角山もいずれは砂に帰るだろう。
この世で最も強烈なものは、時の経過である。どんな強大なものも、これに逆らうことは出来ない。
巨石に囲まれた三角山神社本殿は、覆屋に覆われて保護されている。
口伝によれば、因幡国司となった在原行平がこの社に参拝したとも伝えられる。となると、9世紀半ばには既に祀られていたことになる。
本殿は、その後幾多の災害により消失するも、寛永三年(1626年)に再建された。本殿からは、宝永三年(1706年)の棟札が見つかっており、その当時には今の本殿はあったものと思われる。
本殿に祀られるのは、仏が垂迹して現れた修験道の神である峰錫(ほうしゃく)大権現である。
本殿は、小さいながら見事な彫刻が施されている。鳥取藩主池田家の揚羽蝶の家紋も彫られている。
本殿の向拝が長く、2つの虹梁と柱の組み合わせが軒を支えている。
小さい祠ながら本当に見事な彫刻群である。
本殿の前には、権現石という巨石があり、その陰にもう一つ小さな祠がある。
ところで本殿周辺には、小さな石がごろごろ転がっている。三角山を信仰する地元の人たちは、病気平癒などを祈願する時、山頂に石を奉納するらしい。山頂にある石は、人々の願いが込められたものだろう。
最近私は、日本の国体とは何だろうと考えるようになった。
古くから、日本の国体とは、万世一系の天皇が君臨する政体と言われてきた。
しかし、皇室が君臨する前から日本列島には人が住んで生活していた。皇室以前から人々に変わらず崇められてきたのは、山である。
今でも山自体が神体として崇められている山がある。行者が修行する行場になっている山もある。
有名ではない普通の山でも、麓や山中に神社や祠があるものが多い。
山地は日本の国土の7割を占めている。本来の「日本」が籠る場所は、人々が住む平地ではなく、国土の大半を占める山地のような気がする。そこは、皇室よりも古くから崇められてきた場所である。
古くから変わらず人々の中に残るものこそ、本当の伝統である。
日本の国体は、山岳信仰の中にあるような気がする。